人物シリーズ。
清浦奎吾が超然内閣として批判された後は、護憲三派のうちの1つ、憲政会の加藤高明が総理大臣になるよ。
加藤高明って三菱の岩崎弥太郎の娘を妻にもらっていてね、外交官だった人なんだ。
→原敬内閣が本格的な初の政党内閣。でも普通選挙には時期尚早として反対
→その後、何名か総理をするけど皆すぐに退陣
→護憲三派による政党内閣の復活 ←NEW!!
この流れはしっかり覚えておきたいね。
では、加藤高明がした事について見ていこうか。
加藤高明の連立内閣
護憲三派は第二次護憲運動を引き起こして清浦奎吾内閣を倒したね。
その後の総選挙で第一党となったのが、憲政会。1924年5月の事だね。
憲政会の総裁だった加藤高明が護憲三派連立内閣を組閣するよ。
内相 → 若槻礼次郎
外相 → 幣原喜重郎
蔵相 → 濱口雄幸
このそうそうたるメンバーはしっかり覚えておこう。
そしてしっかり思い出して欲しいのが加藤高明は今でこそ憲政会の総裁を務めて内閣総理大臣にまでのぼりつめた人物だけど、過去にも1回出てきたんだ。
二十一か条の要求の時、第二次大隈内閣の外相なのさ。こっちも覚えておこう。
加藤高明が連立内閣を組閣してからは、立憲政友会も普通選挙に賛成にまわってさ。
1925年に普通選挙法が制定されたんだ。これで納税資格は撤廃されて、25歳以上の男子は投票できるようになり、30歳以上の男子は選挙で立候補できるようになったよ。
この普通選挙法のおかげでこれまでの4倍以上の有権者が増えたのさ。
同時に出されたのが、治安維持法。
第一次世界大戦後から全世界的に社会主義が激化してたからさ、社会主義者・無政府主義者たちの色んな事件もあったし。
そういった人たちを取り締まる事が目的だったわけさ。
憲政の常道
1924年に加藤高明が政党内閣を復活させたことで、その後1932年までの犬養内閣までは
衆議院で多数の議席を占める政党が内閣を担当するようになって、この慣習を憲政の常道と呼ぶようになったよ。
今じゃ当たり前の仕組みだけど、色んな人達が命を犠牲にしてまで勝ち取った権利だから、感動するよね。
わずか8年と言えばそれまでなんだけど、日本史は流れを理解していくと面白みが増すよね。