前回は「棄捐令」について見てきたね。
旗本や御家人が借金で火の車になっていたから、これを救うために札差からの過去の借金を全てチャラにしたんだったね。
さて今回は、松平定信の行った「寛政異学の禁」について見ていくよ。
一体この政策は何を目的にしていたのだろうか。
寛政異学の禁で朱子学以外を「異学」とする
松平定信は、幕府の権威がどんどん薄れていっているのを憂いていた。
そして定信が考え出した権威復活のアイディアが「農業と上下関係を重視した『朱子学』を一番正しい学問として復活させよう!」というもの。
朱子学は、徳川綱吉の時代に最も普及した学問だったんだけど、徳川吉宗の時代では吉宗が朱子学より実学(実生活に役立つ学問)を重要視したために、朱子学は人気がなくなっていく。
そんな中、半ば強引に朱子学を復活させようとして、出した法令が「寛政異学の禁」なわけだ。
朱子学を正しい学問(正学)とし、当時はやっていた陽明学などといった学問は異学(良くない学問)としてしまったんだ。
本来の目的は昌平坂学問所での学問統制
寛政異学の禁で誤解しちゃいけないのは、日本中の教育機関や学者に「朱子学以外は教えたり研究しちゃダメ!」と言ったわけではないということ。
寛政異学の禁は、幕府の教育機関である「昌平坂学問所」というところで朱子学を教えちゃダメよという法令だったんだ。
しかもこの法令意外とザルで、昌平坂学問所の先生たちは一通り朱子学の説明をしたあと、禁じられているはずの陽明学と比較する授業をしていたという。
他にも、昌平坂学問所では朱子学を教えて、自宅では陽明学を教えていた、なんて人もいる。
まとめ
この寛政異学の禁によって、幕府に登用される人たちはみな朱子学を学んだ人たちになっていったから、一応一定の効果はあげた。
だけど朱子学以外の学問が弾圧される、なんてことはなかったってことをしっかり理解しておこう。