建武の新政が終わり、後醍醐天皇は天皇ではなくなってしまったね。
しかし、失敗してもめげずに2回も討幕計画を企てた後醍醐天皇は、こんなことではすぐに引き下がらなかったみたい。
なんと、京都の朝廷だけではなく、後醍醐天皇が吉野にも朝廷を開いてしまったんだ。
観応の擾乱とは
まず、観応の擾乱とは簡単に言うと、
足利尊氏と弟の足利直義の対立が、全国的な争乱に発展し、この争乱のことを観応の擾乱というんだ。
どうして足利尊氏と、弟・直義が対立してしまったんだろう。
その原因は、二人で政治を行っていたことにあるんだ。
建武の新政が終わった後の1338年、足利尊氏は北朝から征夷大将軍に命じられて、
再び幕府政治が始まったんだ。
このとき、室町幕府内では、権限が明確に2分割されていて、尊氏と弟・直義の二頭政治が始まったんだ。
権限が明確に分割されていたから、尊氏は奉公を要求し御恩を供与する権限をもつ「軍事の長」、
直義は統治者としての権限をもつ「政事の長」とそれぞれ呼ばれていたんだ。
このように兄弟二人で互いに補い合いながら政治を進めていったんだ。
しかし、二人はたびたび軍事を優先するか、政事を優先するかということで衝突し、どんどん兄弟の仲に亀裂が入っていったんだ。
そうして1350年、足利尊氏と直義は対立し、全国的な争乱へと発展していったんだ。
1351年に尊氏の執事である高師直が敗死し、
直義は鎌倉に逃れたけれども、兄の尊氏によって1352年に毒殺されてしまうんだ。
兄弟で殺し合いをしてしまうなんて、悲しい結果になってしまったね。
直義の死後、多少は収束したけど、抗争はしばらく続いていたみたいなんだ。
また、この毒殺なんだけど、直義が毒殺されたことを明記しているのは『太平記』だけなんだって。
ほかは全部直義の急病だったということになっているらしいんだけど、
こんなタイミングで急病なんて、なかなか怪しいよね。
観応の擾乱の覚え方は?語呂合わせも紹介!
歴史は流れで覚えるのがいいと思うけど、年号を知っておいても損はないよ!
年号を知っていると並び替え問題が少し解きやすくなるかもしれないしね。
観応の擾乱は、この一連の流れを観応の擾乱というけれど、
今回は観応の擾乱が始まった年、1350年を語呂合わせで覚えてみよう。
足利一味(13)が困る(50)観応の擾乱
足利兄弟の争いだからきっと足利家一族は困っていただろうね…