桓武天皇は何をした?勘解由使、健児もわかりやすく。

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「律令制」という仕組みで成り立っていた奈良時代は、案外早く終焉を迎えてしまう。

710~794だから、わずか84年だね。

 

前回見たように、墾田永年私財法による「班田収授制の崩壊」を皮切りにして日本の律令制は崩壊していく。

 

この律令制崩壊の大きな転機となったのが、桓武天皇の治世。

桓武天皇が794年に都を平安京に移したことから始まる平安時代は、律令の時代から武士の時代へとゆっくりゆっくり移り変わっていく時代でもあるんだ。

 

今回は、そんな平安時代の夜明けを担った桓武天皇の政治について見ていこう。

桓武天皇の生い立ちはちょっと特殊!?

 

桓武天皇は、奈良時代末期に天皇として即位した。

生い立ちは皇族にしてはちょっと変わっていて、お父さんは光仁天皇・お母さんは百済から日本にやってきた渡来人。

 

ここからわかるように、お母さんは皇族ではない関係で、桓武天皇は本来なら天皇になる可能性はほぼなかった。

・・・んだけど、ちょっと状況が変わった。

 

藤原仲麻呂の乱でいったん衰えたとみられた藤原氏が、また再び皇族との関係を持ち直して数々の謀略を仕掛けていたんだ。

その結果、皇太子となるはずのほかの人たちが次々消されて行って、最終的に桓武天皇が皇太子に・やがて天皇になることになった。

 

そしてここから、平安時代(794~1185)が始まる。

 

桓武天皇の政治

 

桓武天皇の政治を一言で表すなら、「律令制を保ちつつ大胆な改革を打ち出す」といったところ。

まあ結局律令制の崩壊は止まらなかったけどね。

 

桓武天皇の政策は大きく分けて

 

  • 蝦夷征討(えみしせいとう)の実行
  • 令外官(勘解由使)を設置
  • 健児の設置

 

の3つが挙げられる。

くわしく見ていこうか。

 

蝦夷征討

 

まず桓武天皇がやったのが蝦夷征討(えみしせいとう)だ。

蝦夷を「えみし」と読む場合、平安時代における「東北」や「北海道」など、東日本・北日本全般を指す。

 

鎌倉時代以降、蝦夷と書いて「えぞ」と読むようになるけど、この場合は北海道のことのみを指す。

ちょっとした違いだけど、覚えておくといいかも。

 

さて話を戻して。

蝦夷と朝廷との関係は、桓武天皇の一つ前の世代(光仁天皇の時代)から既にあんまりよくなかった。

 

その理由は、

京都・奈良あたりで広まっていた仏教の教えや律令制なんかを、東日本・北日本にも広めて支配しようとしたところ反抗されたから

だと考えられている。

 

桓武天皇は、反抗する蝦夷を抑えて勢力下に収めようとしたわけだ。

 

蝦夷征討は大規模な戦闘から小規模なものまで何度か行われたんだけど、有名なのは801年の蝦夷征討。

 

ここでは、それまでの征討で数々の功績をあげてきた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命して、田村麻呂に指揮をとらせた。

 

結果、蝦夷側のボスだった阿弖流為(あてるい)たちを降伏させるという大金星を挙げた。

この勝利によって、蝦夷側にも朝廷の権力が及び始めるようになった。

 

令外官(勘解由使)設置

 

律令制時代の政治の仕組みは、以前見た「二官八省」を基本としている。(https://jahistory.com/nikan-hasyou/

ただ、当時の律令ってのは現代みたいに、律令そのものを書き換えたり改めたりすることができなかったんだ。

 

だから律令を修正したいときは「格式(きゃくしき)」と呼ばれる追加の条文を添えたりしていた。

 

令外官(りょうげのかん)ってのも、本来の律令には定められてないけど、必要になったから後付けで設置された官職なんだ。

文字通り「令」の「外」に作られた「官職」ってわけだ。

 

桓武天皇の時代に新しく作られた令外官で有名なのが、勘解由使(かげゆし)と呼ばれるもの。

勘解由使の目的は、「地方行政の監視」。

 

国郡里制の回(https://jahistory.com/kokugunri-sei/)で詳しく見たけど、国のトップには朝廷から派遣された「国司」と呼ばれる人が置かれるんだよね。

 

でこの国司だけど、徴税権をはじめとしたさまざまな権力を持ってるんだったね。

特に税は、一国の税がすべて国司の下に届くわけだからその量もものすごく多い。

 

で、国司の中には悪い事考えるやつもいて、「こんだけあるなら少しネコババしてもばれねぇだろ」と税の一部をネコババしちゃう人がでたわけ。

 

ただネコババするうえで問題なのが、国司は任期が終わったら次の国司と交代しなきゃいけないこと。

 

朝廷側に届けられた税と、国司のとこの倉庫にある税の量が違ったりするとばれちゃう。

そこで国司の交代の時、後任の国司に賄賂渡して「このこと黙っといてくれや・・・」と耳打ちしておくわけだ。

 

こういう国司のインチキが横行しているのを知った桓武天皇は、この腐った国司たちを厳しく見張るための官職を新しく作った。

 

これが勘解由使だよ。

 

 

健児(こんでい)設置

 

これがね~、実は桓武天皇の改革でかなりの失策なんだよね・・・。

 

当時の農民には租調庸の3つの税のほかにも、いろいろな雑用が義務付けられていた。

その中の一つに、「兵役」があった。

 

名前の通り農民から徴兵して、都などを警備させるっていう決まりだったんだけど、桓武天皇はこれを農民の大きな負担だと考えたんで、これを廃止しようとした。

代わりに、“郡司の兄弟や子供、百姓の中から優秀な人のみを兵にする”という仕組みを設けた。

 

これが健児(こんでい)だ。少数精鋭部隊にしようとしたわけだね。

 

一件「良い政策じゃないか」と思うよね。

 

だけど少数精鋭になるってことは、京や地方を警備する兵士の数が大きく減るってことだよね?

当時は銃とかミサイルはもちろんないから、単純に兵士の数≒軍事力だったわけ。

 

兵士の数が減ってしまうと、それはすなわち朝廷の軍事力が弱まってしまうということでもある。

 

 

結果的に桓武天皇が健児を設けたせいで、地方の警備などが緩んでしまって治安が悪化する事態に発展。

兵役を廃止したことが完全に裏目に出ちゃったんだ。

 

 

とまあこんな感じで、桓武天皇は意欲的に改革に取り組もうとしたんだけど、

 

健児制で民衆は混乱するわ

蝦夷征討が農民たちに大きな負担を強いてしまい側近からやめろと言われるわ

 

でなかなかうまくいかなかった。

 

しかも健児によって地方の治安が悪化したことから、地方に住む人々は次第に「自分の身は自分で守る」ため武装する者が出始めた。

これが武士の時代の幕開けにもつながっていくんだ。

 

墾田永年私財法による公地公民制の崩壊に、桓武天皇の兵役廃止の影響が合わさって、平安時代でゆっくり社会の仕組みが変わり始めていく。

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