ヤマト政権は6世紀に、一旦勢力を弱めたんだけど、6世紀後半~7世紀に入って再び力を取り戻した。
力を復活させた当時のヤマト政権の中枢にいたのが、「蘇我馬子」と「聖徳太子(厩戸皇子)」。
この2人が行った政策によってヤマト政権の在り方が結構変わることになる。さらには、この後始まる奈良時代への大きな足掛かりとなる。
その政策の中で超重要なものの一つが「冠位十二階」という制度。
今回はこれを詳しく見ていくよ。
蘇我馬子と厩戸皇子
蘇我馬子ってどんな人?
以前の記事で触れたように、蘇我氏っていうのは物凄く地位の高い一族だった。(カバネは臣だ)
で、蘇我氏は仏教伝来をめぐってある一族と対立してたってことも言ったね。
蘇我氏と物部氏の対立だ。
蘇我氏は仏教が伝わってきたとき、「仏教いいじゃん!受け入れようぜ。」と容認派で、一方物部氏の方は「日本には神道があるだろ!仏教はダメだ!」と否定派だった。
その対立が顕著になったのが、蘇我馬子と物部守屋、という二人が出てきてから。
お互い様々な策略を張り巡らすんだけど、最終的には蘇我馬子が数々の謀略の末に物部守屋を排除することに成功する。
それどころか、馬子のことが気に入らない天皇を殺してしまい、代わりに馬子の姪にあたる女性を天皇としてしまう。(これが推古天皇)
で、「政治の実権はおじさんが取るからね!」と言って政権の中枢に居座ることになる。
聖徳太子と馬子との関係
実は聖徳太子って、馬子の甥っ子なんだ。
だから馬子と同じく仏教容認派で、馬子と聖徳太子は協力関係にあった。
推古天皇は、自分の政治補佐官として聖徳太子(厩戸皇子)を任命したんで、事実上蘇我馬子と聖徳太子によるツートップでの政治が行われるようになったんだ。
冠位十二階とは
で、そんな聖徳太子(と蘇我馬子)らが制定した画期的な制度ってのが「冠位十二階」だ。
どういうものか一言でざっくりいうと、「身分制度」だ。
といっても他の国にあるような“一番下は奴隷”みたいな身分制度ではない。
イメージとしては、“会社の役職”の方が近いかな。
偉い人は代表取締役、課長、その下に係長や主任とか。
朝廷に仕えている人の偉さを明確に表す制度ってことだ。
具体的には、布でできた冠で自分の冠位(偉さ)を示す。
文字通り全部で12の位があって、偉い順に
大徳―小徳―大仁―小仁―大礼―小礼―大信―小信―大義―小義―大智―小智
となっている。
一番偉い大徳は、冠の色が濃い紫色。逆に一番くらいの低い小智は灰色になっている。
冠位十二階の目的って?
冠位十二階がなんで制定されたのかについては、日本書紀などの史料には何も書かれていない。
専門家たちによる研究だと、冠位十二階が制定された一番大きな理由は「家柄に関係なく、有能な人間を重要職に就かせよう」という考えがあったからだとされている。
従来は氏姓制度しかなかったから、「氏」を持っている良い家柄の一族にしか役職(姓)を与えられてなかったわけだ。
そうなっちゃうと、どんなに優秀な人でも、その家柄のいい一族以外の人が重要な役職に就けなくなる。
それはもったいないよねということで冠位十二階が制定された、ということなんだ。
これだけ見ると「スゲーこの政策すごく先進的じゃん!」と思えるんだけど、
研究によると「冠位をもらった人が昇進する例はけっこうまれ」だとか「姓持ちの人は無条件に高い冠位になってる」だとかいう事実もあるらしい。
まあだからものすごく公平で素晴らしい制度って言い切るのはちょっと問題ありそうだけど、それでも氏姓制度しかなかった時代から大きく前進した、ってのは確かかもしれないね。