今回は、徳川家光の時代に起きた「寛永の大飢饉」について見ていくよ。
四代将軍・徳川家綱の時代から幕府は武断政治から文治政治へと方針を転換したことは以前の記事で話したけど、実はその方針転換には「寛永の大飢饉」が影響していたんだ。
寛永の大飢饉の様子は?
大飢饉のような悲惨な凶作が起こるときは、決まって「悪いこと」が数年間連発して起こる。
寛永の大飢饉のピークは1642年なんだけど、兆候は二年前の1640年から起きていた。
まず北海道にある蝦夷駒ケ岳が噴火。灰が空を覆いつくしてしまい日光が遮られ、東北地方が凶作に。
1641年には稲の成長に重要な初夏に雨が降らず日照り続き。そのくせ収穫時期の秋には大雨が連続してしまった為に西日本が凶作に見舞われる。
このような不作が1642年になっても続いたため、混乱はピークに達する。
寛永の大飢饉の影響
農村部は度重なる凶作で自分たちの収入源である米が全然取れない。
だから農業を投げ出して都市部に逃げ込んだり自分の身を売ったりしはじめた。
幕府は百姓を何とか農村部に縛り付けておかないと年貢減っちゃう。だから田畑永代売買の禁をはじめとした様々な対策をとる。
しかしそれは更なる百姓たちへ負担を強いてしまった。
また、米がとれないと藩の財政にも影響するね。
反は財政難を理由に武士を次々リストラし始める。
ここでリストラされた武士が「牢人」となって、後々『由井正雪の乱』を招くことになる(過去記事参照)。
まとめ
寛永の大飢饉を通して、幕府は「藩や百姓を押さえつける『武断政治』では今後やっていけないんだ」と気づくことになる。
だから家綱の時代から『文治政治』に転換することになるんだね。