鎌倉時代

鎌倉旧仏教とは?浄土宗の関係は?簡単にわかりやすく。

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前回は鎌倉新仏教について見てきたけど、今回は逆に「旧」仏教について見ていこうと思う。

 

鎌倉新仏教の登場で、旧仏教は廃れてしまったのか、と思うかもしれないけど・・・。

そんなことは全くなくて、旧仏教系もそれぞれ進化したりなど、いろんな変化があった。

 

それと、鎌倉新仏教(浄土宗系)と旧仏教の間には対立関係も出てきたりした。

今回は新仏教と旧仏教の関係についても触れていくよ。

 

旧仏教って?

 

旧仏教とされるのは、奈良仏教の南都六宗と平安仏教の天台宗・真言宗

まあ、要するに鎌倉時代より前に展開した仏教の事だね。

 

鎌倉時代に新仏教が一般庶民を中心に流行りだすと、逆に旧仏教系の人気は低迷しだす。

(といっても政治的な力は新仏教よりもずっと強かったけど。)

 

その旧仏教の中で、鎌倉時代にとりわけ大きな革新を遂げて復興したのが、華厳けごん宗・りっ宗・法相ほっそうの三宗派だった。

 

今回は重要なこの3つについて見ていくね。

 

華厳宗

 

華厳宗の復興には、明恵みょうえというお坊さんの登場が関係している。

 

明恵は、超が付くほど真面目に・厳格に仏教の戒律を守った人物と言われる。

当時新仏教の出現で、「末法だし戒律なんて守る意味無ぇ~!」と、お坊さんが妻帯して子供を作ったりなんかしてるご時世の中でね。

 

すごく厳格な仏教徒だったことから推測できると思うけど、

明恵は浄土宗系を徹底的に非難した。

 

「念仏を唱えるだけで往生できるなんて、そんな虫のいい話あるわけないだろぉ!?」ってね。

 

 

ところで、明恵は具体的に何をしたかというと、

「華厳宗と密教の融合」。

 

華厳宗はもともと「顕教(文章化された教えを学ぶ)」ものだったんだけど、そこに仏教の最上位とも言われる「密教」のエッセンスも加えるという大きな改良を加え、

華厳密教を確立した。

 

・・・と同時に、明恵は一般庶民にも華厳密教を理解してもらえるように色々工夫をしたとも言われる。

浄土宗系のやり方には完全に反対してたけど、浄土宗系の特徴である“一般庶民にも分かりやすい”という良い面は、積極的に取り入れていったんだね。

 

法相宗

 

法相宗の革新も、華厳宗の時と似てて、貞慶じょうけいというお坊さんが中心人物。

元々興福寺(法相宗のホーム)のお坊さんだったんだけど、興福寺の他の坊さんたちはロクに修行もせず怠けているのをみて失望し、山にこもり始めた。

 

そこで貞慶は、明恵のように厳しく戒律を守りながら法相宗の教えと向き合ったという。

 

貞慶もまた厳格な仏教徒だったんで、浄土教のような「簡単に往生できるぜ~」というような教えには大きな不満を寄せていた。

そのため、当時の朝廷に対して「専修念仏禁止にしてくださいよ!」というお願い文を書いたりもした。

 

 

律宗

 

ここでも、一人のカリスマ的僧侶が律宗に大きな転機をもたらした。

律宗はもともと戒律の研究とその実践を行っていた「戒律」を重んじる宗派だったんだけど、昨今の流行りやらなんやらで廃れて来ていた。

 

そんな中で、叡尊えいぞんというお坊さんが積極的に戒律の復興に力を入れ始めた。

 

叡尊は、自身が学んだ真言宗と律宗を融合させて真言律宗という新しい宗派を確立したカリスマ。

 

さらに、「救済の対象にならない」と一部宗派では言われていた女性や身分の低い人、体の不自由な人などにも手を差し伸べ、さらには橋の建設を手伝う・・・

などなど、数多の慈善事業を行った。まさに聖人だね。

 

また、叡尊の興した真言律宗の教徒だった忍性にんしょうというお坊さんも非常に大きな功績を残した。

 

師である叡尊の行っていた、いわゆる社会的弱者や差別対象だった人を救済するという役割を引き継いで行ったのがこの忍性で、

東日本を中心に幅広く救済を行ったとされる。

 

この忍性の活動が、真言律宗の確立にも大きな貢献をしたと言われている。

 

旧仏教と浄土宗の関係

 

前の項でも少し触れたからもう察している人も多いと思うけど、基本的に旧仏教系と浄土宗は反りが合わない。

 

例えば、華厳宗の明恵は摧邪輪ざいじゃりんという書物を書いて浄土宗の法然を強く批判した。

 

 

法然の書いた『選択本願念仏集』の中の

“阿弥陀仏への信心を持って念仏を唱えてさえいればいい

“そこに「悟りを得たい」という心など必要ないし、自分から悟りを得ようとする教えはオカシイ

 

というフレーズに対して、『摧邪輪』では

「悟りを得たい」という心なくして何が仏教だ!

“浄土宗には仏教の根本である「悟りを得ようとする心」が無い!”

 

といった具合に激しい批判を展開している。

 

まあ明恵が厳格な仏教徒だったこともあって、法然の戒律や旧仏教を軽視するような部分には納得がいかなかったんだろうね。

 

 

このほか、法相宗は朝廷に対して興福寺奏状こうふくじそうじょうというものを送っている。

これは、

 

“法然の浄土宗のせいで、根拠のない専修念仏ばかりが持てはやされている”

“浄土宗の教えをさらに曲解した信徒には、「もう俺の往生は決まったから犯罪してもOK~」と言い出すやつまでいる”

“古来からある仏教をあまりに軽んじすぎている”

 

という趣旨の批判を全部で9つ挙げたもの。

 

これが直接的に効果を持ったわけではないけど、その後法然が島流しの刑にされるきっかけを作ることにもなった。

 

 

とまあ、こんな感じで旧仏教と浄土宗系は対立してたわけだ。

 

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