寛政の改革を分かりやすく!~囲米&七分積金で飢饉対策を~

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今回から何回かにわたって、寛政の改革で実際に行われた政策を丁寧に見ていくよ。

 

何かと不憫でならない松平定信。せっかく幕政に参加できたけど庶民や幕府内の反発でわずか6年で辞めさせられてしまう。

 

そんな定信だけど政策の中にはとてもいい政策もある。

 

今回はその中の一つ、囲米&七分積金について見ていこう。

 

囲米は「義倉」を制度化したものだ!

 

「義倉」の話、覚えているかな?天保の大飢饉の際、義倉を設置していたおかげで餓死者が出なかった藩があったって話だ。

 

この義倉が設置された背景には松平定信の政策があった。

 

義倉は、飢饉が起きた際に餓死者を出さないよう、あらかじめ米をはじめとする穀物を貯蔵しておく倉庫だったね。

義倉は富裕な人からの寄付や税の一部を蓄えていた。

 

これに似たものとして、社倉というものもあった。

これは民間で義倉の役割を行った。

 

囲米は、この義倉や社倉といった飢饉対策の装備を諸藩の大名に設置させた制度のことを指す。

七分積金との関係

 

囲米制度は、七分積金という制度もセットで実施された。

 

これはとてもいい制度だった。

江戸時代、町に住む人たちには町入用(町を運営するために払う料金)が課せられていた。

 

定信は、この町入用を削減して、削減した分から7割を積み立て(貯金)しようと考えた。

この目的は、「飢饉対策」と「貧困者救済」。

 

町入用削減で浮いた米は江戸町会所と言われる七分積金管理団体によって管理されるようになる。

 

さらに江戸町会所は、預けられた米やお金を低金利で貸し出し、その利子でどんどん積み立てを増やしていった。

利子分で貧困者のための救済施設なんかも作った。

 

 

江戸町会所の米の備蓄も後々大きな役割を果たす。

天保の大飢饉で米価が超値上がりして大混乱になったとき、蓄えていたお金や米を放出して混乱を鎮めることに成功したんだ。

 

この七分積金の制度はなんと明治時代になるまで続き、最後東京府に没収された時には170万両も残していたという。

まとめ

 

定信が行った善政の一つがこの「囲米」「七分積金」に見る飢饉対策。

江戸時代が終わるまで、民衆を飢饉から救っていたんだ。

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