前回は、「末期養子の禁緩和」についてみてきたね。
牢人をこれ以上生み出さないため、幕府転覆を起こされないようにするために行った改革だった。
今回は、前回の末期養子の禁緩和のほかに行った保科正之の政策を見ていくよ。
保科正之は、家光の行う「武断政治」から「文治政治」へと転換した「日本最大の名君」とも言われているよ。
大名証人制度の廃止
家綱の時代で行われた改革の中で大きなものの一つが、この大名証人制度の撤廃。
もともとは、幕府が政権を安定させるために設けた制度で、内容は
- 大名の妻子を人質として江戸に住まわせる、
- 家老クラスの重臣からは身内を交代で人質として提出させ江戸に住まわせる
というもの。
これを撤廃しようと提言したのは、江戸時代どころか日本の歴史上で屈指の名君と名高い保科正之。
ちょっと脱線するけど、この保科正之の神エピソードを一つ。
明暦の大火(次回解説)によって江戸城の本丸が焼失し、これを再建しようとしているときの話。
天守閣を再建しようという話が持ち上がっていた時に「今は江戸市民が火事で大変なことになっている。天守閣の建設にかかる費用を復興に回せば、市民を救うことができるのではないか」と提言したんだ。
これに家臣たちは感激して、実際に天守閣は建設されなかった。
こんな素敵なエピソードをたくさん持つ保科正之が撤廃した「大名証人制度」。
武断政治から文治政治に切り替える上で、武断政治感マシマシのこの制度の撤廃は必要不可欠だったんだね。
殉死の禁
これも保科正之が提言したこと。
そもそも武士の「殉死」とは、主君が戦いに敗れたときなどに、その主君への忠誠心を示すため家来たちも切腹したり討ち死にしたりすることだ。
中世以降、こういった殉死は「美しいもの」として周知されていたんだ。
実は戦国時代では、主君が病気や老衰で死亡したときには殉死を行わなかった。
だけど江戸時代では戦いで主君が死ぬことがなくなっちゃったから、家来たちは主君への忠誠心を示すため自然死の場合でも殉死するようになってしまった。
実際、秀忠や家光が死亡したときには重鎮クラスが次々殉死してしまった。
しかし、こういったことが何度もあると、有能な人材が殉死によっていなくなってしまい幕府が成り立たなくなってしまう危険性があった。
だから保科正之は「殉死はまったく意味がなく、無益なもの」として殉死を禁じることにした。
まとめ
保科正之による数々の政策によって、「武断政治」から「文治政治」へシフトしていくことができた。
保科正之が日本史上最高と言われるのも頷けるね。