前回まで、源氏の初代将軍・頼朝から、3代将軍・実朝までの流れを見てきたね。
頼朝が強力なリーダシップと周りの協力あって見事鎌倉幕府を成立させたまではよかったけど、頼朝の死後頼家・実朝やその側近たちは北条氏の策略によって次々殺されていった。
で、実朝の代で源氏将軍は途絶えてしまったわけだ。
邪魔者が消えた北条氏は、いよいよ自分たちが鎌倉幕府、ひいては日本のトップに躍り出るべく行動を開始する。
これに待ったをかけたのが、当時の朝廷の天皇(上皇)であった後鳥羽天皇(上皇)だ。
後鳥羽上皇って何者⁉
後鳥羽天皇は、まさに平家が滅亡し鎌倉幕府が作られるころの動乱の時代に生まれた。
この後鳥羽天皇には、一つの「コンプレックス」があったといわれている。
何かというと、「三種の神器ないまま天皇となり、政治をすることになってしまった」こと。
実は平氏が源氏に追われて逃げ出すとき、平氏が擁していた安徳天皇といっしょに三種の神器を持ち出されてしまったんだ。
三種の神器ってのは、八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)のことで、天皇であることを象徴するアイテムなんだ。
結局その三種の神器のうち2つは取り戻せたんだけど、宝剣だけが海に沈んで見つけることができなかった。
だから後鳥羽天皇は即位してからずっと「神器が一つ足りない」状態だったんだ。
こういった経緯から「神器がなくても俺は天皇なんだ!舐められないようにしないと」と考えるようになる。
結果、政治姿勢は強硬的なものになり、朝廷の強力さを見せつけようとするようになる。
そしてこの強硬的な態度が、のちの大事件「承久の乱」のきっかけとなっていく。
承久の乱は日本初の「朝廷vs幕府」バトル
当時は院政が主流だったんで、後鳥羽天皇は早くに天皇の座を譲って上皇になり院政を敷くようになる。
そんななか、幕府側では子供のいない時の将軍・実朝の跡継ぎはどうするかという話が持ち上がっていた。要するに次代将軍を誰にするかってことだね。
幕府側は朝廷に対して、「上皇の息子さんを将軍にすればめっちゃ政権が安定すると思うんですよ~」と提案をする。
だけど上皇はこれを良しとしなかった。そもそも朝廷じゃなくて幕府が力を持っていることに対しても不満だった。
結果的に実朝が公暁に暗殺されたためにこの話はなかったことになり、かわりに幕府側は摂関家から将軍にする「摂家将軍」を用いた。
そんなこんなで朝廷と幕府にはだんだん溝ができはじめた。強硬路線を変えない後鳥羽上皇は、幕府を転覆させてやろうと考え、自身の直属の軍である「西面の武士」を創設する。
ある程度軍備が整ったところで、「執権の北条義時を討て!」と命令を発する。
ついに幕府と朝廷の戦いが始まった。これは日本史上初の「朝廷対武家政権」の戦いだった。
で、きになる結果はというと・・・。朝廷側の完敗。
軍備が違いすぎたし、北条政子の御家人をまとめ上げるリーダーシップが強力すぎた。
後鳥羽上皇は結局義時によって隠岐島に流刑とされてしまう。
また、この事件によって幕府>朝廷という力関係がハッキリしてしまい、以後北条氏率いる鎌倉幕府が全国トップの権力を持つようになる。