醍醐天皇時代の「延喜の治」、村上天皇時代の「天暦の治」の間にいた、影の薄い天皇の名前を覚えてるかい?
朱雀天皇ね。
天皇自身が病弱で幼かったことや、乱・天災のオンパレードで政治以外のところが大混乱していたこともあって
天皇については教科書でもあまり触れられていないね。しゃーなし。
問題はこの朱雀天皇の期間に起きた「乱」。
平将門の乱と藤原純友の乱がこれに当たるもので、総称して承平・天慶の乱ともいう。
実はこの乱、後の時代で「武士」が台頭するきっかけになったとも考えられている重要な乱なんだ。
平将門の乱
平将門とは?
平将門は、今でいう千葉県に拠点を置いていた豪族の一人。
実は、将門のおじいさんは桓武天皇の孫。
将門もいうなれば桓武天皇の5世に当たる人なんだ。
しかし将門のおじいちゃんは、桓武天皇が実施した大規模な皇族リストラによって、“平”の姓とともにパンピーにランクダウンさせられ、結局(当時)ド田舎の関東へと追いやられてしまったという経歴を持つ。
というわけで将門は桓武天皇の血筋をひく者の一人なんだけど、この時はもうただの地位の低い田舎者だった。
将門は、平将門の乱が起きる前に、平氏一族での内紛に参加している。
内紛の理由は相続問題だの、女性の取り合いだの言われてる)
武の才能があったのか、この内紛で将門はひたすら勝ちまくった。
その結果、地元の関東圏の人々からは「やべぇ・・・将門様強すぎる・・・!」と畏怖と尊敬のまなざしを受けることになる。
平将門の乱
平氏一族の中でドンパチやってるのは別に問題なかったんだけど、
この後将門が国衙(ここでは国司とそれ以下の官僚たちを指す)たちと対立するようになってしまったので問題が起きてしまう。
国司たちって、朝廷から派遣された官僚たちだったよね?
要するに国司たちと対抗すること=朝廷と対抗すること になってしまうわけだ。
将門的には、成りゆきでそうなっちゃった面もあるけど、
心の底では「なんでウチの家系は元々皇族だったのに、こんなド田舎で苦しまなきゃいけないんだよ」と不満に思っていた節もあるんで、朝廷との対立は必然でもあった。
ついでにいうと、将門が関東で勢力を広げる中で、将門の軍に参加した人たちの多くも、“もともと朝廷で偉い立場だったのに、位を落とされ地方に追いやられてしまった”人たちだった。
いわば、「自分たちの立場を取り戻すために、武力で対抗しようとした」というわけだ。
兎にも角にも朝廷と対立してしまうことになったんで、腹を決めた将門は関東周辺の国々を次々攻め落として勢力を拡大していく。
終いには「新皇(新しい天皇)」なんて自称し始めたりもした。
・・・が、快進撃もそこまで。
平貞盛率いる朝廷軍の圧倒的な数に押され、討ち取られてしまった。
ちなみに貞盛は、のちにかの有名な平清盛の祖先にあたる人だよ。
藤原純友の乱
平将門が関東で「俺は新皇だ~!」と宣言をしていたころ、瀬戸内(中国地方)でも
偶然にも同じタイミングで・偶然にも同じ動機で朝廷への反乱を企てた人がいた。
その人こそ、藤原純友。
純友も元はと言えば藤原基経の親戚で名門の出身だったんだけど、ひょんなことから出世が望めなくなり、地方(瀬戸内)へ落ちることになった。
純友の瀬戸内での仕事は、海賊の討伐。
このころ瀬戸内では海賊による被害が頻発していたんで、その排除が仕事だった。
・・・はずなんだけど、いつの間にか純友はグレて海賊の仲間入りどころか、海賊の親分になってしまう。
ポイントはこの海賊で、実はこの海賊の構成員の多くは都落ちした中流階級・下流階級の貴族たちだったんだ。
平将門の軍と同じ境遇だよね。
純友も、朝廷の理不尽な権力体制に反抗すべく、武力をもって対応しようとしたんだ。
ちなみにこの項の冒頭でも言ったけど、面白いことに平将門が朝廷に対し反乱を始めたのとタイミングが同じだったんだ。
なんの示し合わせもしていないのにね。
朝廷からすれば、「東で将門、西で純友が暴れてる!?どうすればええんや・・・」という感じだっただろうね。
実際朝廷もかなりビビったらしいんだけど、将門が案外あっさり死んでしまったんで軍を純友側に全部投入できるようになったこともあり、藤原純友軍も朝廷軍に敗北してしまう。
それでも藤原純友の乱は鎮圧に2年近くかかり、朝廷の軍事力不足が浮き彫りとなった戦いでもあった。
承平・天慶の乱は無意味ではなかった
結果だけ見ると、平将門の乱・藤原純友の乱はどちらも朝廷に鎮圧されてしまったので失敗と言える。
だけど、後々のことを考えるとこの乱は非常に重要なものだったんだ。
平安時代の次って何時代だっけ?
そう鎌倉時代だよね。
鎌倉時代は武士による武家社会が作られていくわけだけど、この2つの乱が鎌倉以降の「武士の台頭」の先駆けだったとみられているんだ。
結局は失敗してしまったけど、平将門や藤原純友が「武力で世の中を変えようとした」っていう前例を作ったことで、
- 地方の人々に「武力をもつ」ということを強く意識させるようになった。
- 朝廷も騒動の鎮圧のため、武士たちを重用するようになった
- 源氏・平氏などの武家が朝廷と接近するようになった
などなど、今後の武家社会へのきっかけが多数生まれたんだ。