平安時代前期では、最澄が広めた「天台宗」と空海が広めた「真言宗」の2つが世間を席巻した。
それが平安時代中期になると、また仏教界にニューウェーブが到来する。
その名も浄土教。
鎌倉時代に出てくる「浄土宗」って宗派とは似て非なるものだから、ごっちゃにしないようにね!(最後に詳しい解説置いとくね。)
この浄土教の出現から鎌倉時代にかけて、日本の仏教がだんだん「鎮護国家」の為の物から、「民衆の救済」の為の物に変化していくことになる。
そこらへんも含めてどういうことか、詳しく見ていこう。
浄土教の出現
浄土教の発端は円仁という天台宗のお坊さんが、中国で浄土教を学んで帰ってきて、それを天台宗の教えと合わせ始めたこと。(天台浄土教)
これが平安中期になると、主に“庶民の間で”広まり始める。
ここ、重要なポイントね。
平安時代は「鎮護国家」、つまり仏教によって国を治めるという思想があった。
そのため、大きな寺院で働くお坊さんたちってのはみんな今でいう「公務員」の扱いで、
国から指示された“国の為の”仕事しかできなかった。
しかしお坊さんの中には「国だけではなく、庶民にも仏教の教えを広めたい・・・!」という素晴らしい考えを持つ人もいたようで、
そのお坊さんたちは無所属で日本を歩き回り、私的に教えを説いて回るということをした。
この“私的に庶民に教えを説いて回ったお坊さんたち”が浄土教を広めていったんだ。
末法思想と浄土教
ところで、「浄土教ってなんなの?」って話だよね。
浄土教を知るにはまず平安中期から広まった“末法思想”を知る必要がある。
末法思想は一言で言うと「現代の仏教の教えは、お釈迦様の教えが劣化コピーされまくってもはや正しい教えが残っていない、最悪な時代だ!」という考え方。
お釈迦様が生きていて、その時代に悟りを開いたお坊さんたちがいる時代(正法)から、時代が進むにつれどんどん劣化コピーされていき、最終的には正しい教えが何一つ残っていない状態になる(末法)ってことだ。
この思想が流行した背景には、藤原氏による摂関政治が衰退して院政が強くなり、また武士も台頭して来たりと社会的に混乱していたこともある。
でだ。
「そんな末法の時代(≒最悪の時代)だから、いくら仏教を学ぼうと思っても正しい教えではないから、いくら現世で修行してもムダ。
じゃあ、仏様のいる浄土(極楽)に行って、そこで直々に教えてもらえばいいんじゃね?」
という大胆な考え方をする人たちが現れた。
これが浄土教ってわけ。
浄土教の内容を簡単に言うと、
「末法の現代じゃ、いくら正しい教え学ぼうとしても無理。極楽浄土に行って(往生)、阿弥陀様から正しい教えを説いてもらおう。そしていずれは成仏しようぜ」
「死んだ後に極楽に行って正しい教えを授かりたいなら、南無阿弥陀仏と念仏を唱えるしかないぜ!」
という感じ。
末法思想の出現が、浄土教の展開に繋がったわけだね。
空也と源信
庶民に浄土教を説いたありがたいお坊さんたちの中で日本史の教科書にも出てくるのが、
空也と源信。
空也は、日本各地を歩き回り庶民と触れ合いながら、庶民たちの抱く悩みだとかに寄り添って浄土教を布教していった、という。
歩きながら念仏を唱えていたとも言われ、のちの踊念仏にもつながった。
あと、布教の傍ら、庶民のために道を作ったり橋をかけたりもしたらしい。
そんな数々の功績から、空也は別名「市聖」とも言われた。
源信は特に重要で、源信の書いた『往生要集』という書物を遺した。
『往生要集』は、「極楽に往生して、いずれ成仏したいなら念仏を唱えるしかないぜ!」という浄土教の思想を、そのやり方と共にものすご~く簡単にわかりやすく書いたもの。
この書物が庶民にも広く伝わったことで、一般庶民の間に「極楽・地獄」といった思想とか「念仏を唱える」といった風習が深く根付くことになる。
現在でも極楽と地獄って思想は日本にも残ってるよね。小さいころ親に「悪い事してると地獄に落とされるぞ!」って脅かされたりね(笑)。