明治時代

板垣退助の自由党と大隈重信の立憲改進党が結成される。

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さて、伊藤博文と政権の主導権を争っていた大隈重信は免官させられたね。

国会を早期に開こうとしたことと、開拓使官有物払下げ事件にも関係してるだろう!!ということで辞めさせられてしまったんだね。

伊藤博文の主張とはまったく異なる急進的な考えだったからね。

そんな大隈重信は政党を作ることになるんだよ。今日はそんな話。

自由党と立憲改進党

板垣退助 → 自由党
大隈重信 → 立憲改進党

これは中学校の歴史でも習う内容だけど、高校生はもっと詳しく見ていく必要があるね。

1881年に国会開設の勅諭が出されたことによって、10年後に国会が開かれるわけだから政党作りが急務になるんだよね。

 

○自由党

1881年に結党。国会期成同盟を中核として結成されて、板垣退助が総理になるよ。

主張:在権在民(国民主権)、一院制、フランス流急進論
基盤:農村

 

○立憲改進党

1882年に結党。明治十四年の政変で下野した官僚や新聞記者を中心に結成されて、大隈重信が総理になるよ。

主張:君民同治(くんみんどうち)、二院制、イギリス流の穏健な立憲君主制
基盤:商工業者、知識人
君民同治ってのは、君主(天皇)と国民の代表である議会が国を統治することだね。

 

自由党と立憲改進党はどうなるか?

結論から言うと、自由党は解散するよ。で、立憲改進党は実質、活動が不可能になっていく。

立憲改進党について最後まで説明しちゃうと大分、年代が飛んじゃうから、大隈重信脱退までにしておくよ。

 

せっかく10年後に国会が開かれる!という公約が出たのに、自由党も立憲改進党もそこまでもたなかったんだね。

解散した理由と原因についても理解しておこう。

 

○自由党

集会条例で明治政府に弾圧されたり、内部の過激な急進派が次々と事件を起こしてしまうよ。

過激な急進派が事件を起こす → 集会条例で厳しく取り締まられる

という悪循環に陥って、1884年10月末に解散。

 

○立憲改進党

同じく1883年頃から集会条例で明治政府から厳しく弾圧されるよ。解散する案が出るも、内部で揉めに揉めて、1884年に大隈重信が脱党。

 

 

まずは、

国会開設の勅諭が出され10年後に国会が開かれる

政党を結成していく

集会条例で厳しく取り締まられる

衰退していく
この流れをしっかり理解しておこう。

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