6年続いた治承・寿永の乱もいよいよ大詰め。
平氏最強の指導者清盛は死に、平氏は都落ち。一方で頼朝は義仲を退け主導権を握り、後白河法皇とタッグを組んだ。
この時点でかなり大局は決してしまった感じがしなくもない。
しかし、実は平氏は都落ちの際「あるもの」を持ち逃げしていて、これが大きな問題となる。
どういうことか、詳しく見ていこう。
三種の神器問題
冒頭でも触れた、平氏が都落ちの際“持って行ってしまったもの”。
それは「三種の神器」だった。
皇族には代々、三種の神器は天皇の代替わりのとき一緒に継承されるしきたりがあった。
後白河法皇は平氏が擁立した安徳天皇とは別に、後鳥羽天皇(高倉天皇の息子)を即位させようと考えていた。
しかし、即位させる際に継承する三種の神器が平氏に持っていかれてしまったため、天皇になるための手続きができない状況に陥ってしまった。
「三種の神器の継承」というしきたりは何百年も受け継がれてきたものだし、ここで簡単に「神器なしで即位させます!」とはできなかったわけだ。
後白河法皇はどうしたもんかと頭を悩ませた。
「三種の神器を返してもらう代わりに、平氏側と和平を結ぼうか・・・。いやしかし、今や世間では平氏を廃して源氏を求める声が強い・・・。やはり平氏を滅ぼして、力ずくで返してもらうしかないか・・・?」
色々考えた結果、最終的に後白河法皇は「力ずくで奪い返す」作戦をとることに決めた。
一ノ谷の戦い
一方の平氏側は一体どういう状況だったのか。
実は平氏、義仲が色々やらかして頼朝・義経にシバかれている間にかなり勢力を取り戻していた。
余談だけど、この時の「平氏がどれくらいの勢力を回復していたのか」ってのが未だに研究者の間でも定まっていないらしい。
一ノ谷の戦いを記した史料はいくつかあるんだけど、その史料のうちどれを信じるかで話が変わってしまうんだってさ。
この記事では、今んとこ多数派の「源氏約5万、平氏軍約2万」って勢力差で考えてくよ。
この数字見ると、平氏意外と軍事力あるな~って感じると思う。
多分この規模の軍がマトモにやり合ったら、双方にかなり大きなダメージが入るだろうな、って予想もできるね。
じゃあ実際の戦いはどうだったのかというと・・・。源氏側の大勝。
平氏は割と一方的に負けた。
源氏大勝の理由として良く言われるのは、「源氏側が奇襲作戦を成功させた」から。
まず平氏側に後白河法皇の使いを送って、「法皇は平氏と和平を考えていらっしゃいます。だから源氏と平氏は戦闘をしないでください。」みたいなことを吹き込む。
これを信じ切って安心した平氏側は(源氏がすぐそばまで来ていると知らずに)まったりこいてしまう。
そこを挟み撃ちのような状態で攻め込まれ、平氏側は源氏の奇襲に対応が遅れてボコボコにやられたというわけ。
屋島の戦い
一ノ谷の戦いで勝利した源氏軍。
それは良かったんだけど、肝心の三種の神器とそれを持った安徳天皇・平氏残党はまたしても逃走してしまい、奪還できなかった。
後白河法皇としてもこれ以上三種の神器奪還を待ってもいられないので、「三種の神器継承は後付けでもいいっしょ!とりあえず即位で!」と神器なき即位を行うことに。
ここで誕生したのが後鳥羽天皇だ。
ちなみに、後鳥羽天皇が即位したとき安徳天皇はもちろんその場にいなかったので、安徳天皇は退位をしていない。
つまりこの瞬間から「天皇が二人いる」という異常事態になっていた・・・というのも覚えておくといい。
さて話を戻して。
源氏は度重なる平氏との衝突で有力な武士を何人か失いながらも、着実に平氏側を追い詰めていた。
安徳天皇抱える平氏残党は、屋島(香川県)へと逃げ込んで守備を固めており、源氏側はそこを攻め落とそうと考えていた。
そこで出陣したのが、お馴染み源義経。
一ノ谷の戦いでも奇襲による挟み撃ちで勝利を収めている智将・義経は、今回の屋島戦でも奇襲作戦を行った。
平氏が陣取っていた屋島は瀬戸内海に浮かんでいる。
「ここを攻撃するなら普通海から進軍するだろう」と考えていた平氏側だったんだけど、義経はその裏をかいて香川県に上陸した後陸路で屋島に迫るという作戦を決行した。
これがうまい事はハマり、安徳天皇とその取り巻き平氏はさらに西、彦島(山口県)に逃げ出した。
屋島に残された平氏軍も頑張ったんだけど、義経の奮戦と源氏軍の援軍が到着したことで勝ち目がなくなり、そのまま敗北した。
壇ノ浦の戦い
屋島の戦いでも源氏軍に打ち破られた平氏軍は、命からがら山口県・彦島に逃げ込んだ。
しかし平氏軍はいよいよ後がなくなってしまう。
山口県よりもさらに西に逃げようとすると九州があるけど、そこはすでに源氏が制圧していて逃げられない。
瀬戸内海側からは義経たちが迫ってくる。
もはや絶体絶命の状態というわけだ。
そこで義経はとどめとばかりに大量の船で彦島に攻め込む。
安徳天皇ら平氏軍は彦島を捨て、山口県の壇ノ浦に逃げ出そうとする。
・・・とまあ、ここまでは良かったんだけど。
ここから源氏軍は一転、かなり劣勢となってしまう。
というのも、源氏軍と平氏軍が対決していた海域は「関門海峡」と呼ばれる“非常に潮の流れが激しいところ”だった。
(関門海峡は山口県と福岡県の間の部分ね。)
その潮の流れを良く知っていた平氏軍は、海上戦闘にあまり慣れていない源氏軍を一方的にボコれたというわけ。
一時は義経の命も危ないくらいまで追い詰められた。
がしかし、あと一歩というトコロで潮の流れが変わり、源氏軍が一気に優勢となった。
結果平氏は壊滅状態に陥ってしまい、もはや勝機はなかった。
それを悟った平氏軍は「もはやこれまでか・・。この後源氏軍にとっつかまって恥さらしとなるよりは、ここで自殺しよう」という判断をし、安徳天皇ともども多くの平氏(武士だけでなく女性も)が入水自殺をしてしまった。
この「壇ノ浦の戦い」にて治承・寿永の乱は終結し、これに伴って平氏の時代も完全に終了したことになる。
ちなみに、安徳天皇が入水した際、持ち出されていた三種の神器も一緒に入水してしまったため、三種の神器のうち「剣(草彅剣)」が行方不明となってしまう。
後に源氏軍が必死こいて探したものの見つからず、これまで受け継がれ来た本来の剣は失われてしまうこととなる。
どうだったかな。
長きにわたる源氏と平氏の戦乱・・・。最終的には、源氏の勝利で幕を閉じる。
壇ノ浦の戦いは日本史だけじゃなく国語の分野でも頻出だよね。
古文の授業でたぶん「安徳天皇の入水」は勉強するんじゃないかな~。
和歌とかでも良く出てくるよね。
もしこの源氏と平氏の戦いをもっと詳しく知りたければ、「平家物語」や「吾妻鏡」、「玉葉」なんかを読んでみるのもアリかもね。