大化の改新期(646~701くらいまで)は、前回見てきた白村江の戦いやら遷都やら、いろいろな事件や出来事が起きる動乱の時代でもあった。
今回見ていく壬申の乱(じんしんのらん)も、この大化の改新期に起きた大事件。
大友皇子と大海人皇子でお馴染みの、有名な争いだよね。
実はこの乱、白村江の戦いに匹敵するターニングポイントでもある。
詳しく見ていこう。
壬申の乱がおきる前の状況
660年代、時の天皇は斉明天皇。
その斉明天皇は白村江の戦いが起きる前に病死してしまう。
じゃあ次の天皇は誰になるかというと・・・なんと中大兄皇子だった。
というのも、実は中大兄皇子のお母さんは斉明天皇だったの。
当然、斉明天皇が死んだら子の中大兄皇子に皇位がいく。
というわけで中大兄皇子改め天智天皇として668年に君臨することになる。
天智天皇の「ある行動」が事の発端
天智天皇はある日、「ん~俺の後継者は息子の大友皇子(おおとものおうじ)にしようかな~?」と言い始めた。
これがかなり大問題。
天智天皇には、“同じお母さんから生まれた弟”である大海人皇子(おおあまのおうじ)という人がいたんだけど、
当時の常識では大海人皇子が次期天皇になるはずなんだ。
当時の次期天皇になる順番てのは、天皇の血を引いてるのはもちろんだけど、「お母さんの身分」が結構重要だった。
天智天皇の弟・大海人皇子は皇后(=天皇の正妻)から生まれているのに対して、
天智天皇の息子・大友皇子は側室(言い方悪いけど、サブの奥さんみたいな感じ)から生まれた子。
つまり血統を見ると大海人皇子の方が次期天皇ランクが上なんだ。
そのしきたりを無視して天智天皇が「我が息子を天皇に!」なんて言っちゃったもんだから、当然次期天皇だったはずの大海人皇子は不満をもつわけ。
大海人皇子は皇位を辞退
天智天皇は、「大友皇子を次期天皇にしたい」発言の後病気になる。
で、その際大海人皇子を呼び出して「お前に天皇の座譲ったろか・・・?」と聞いた。
大海人皇子はこれを辞退して「いや、大友皇子の方が適してると思います」って言ってそのまま出家してしまう。
ここで多分みんな「え?」と思うはず。
天智天皇は大友皇子に天皇の座を譲りたいはずなのに、なんで大海人皇子に「天皇の座譲ろうか?」なんて聞いたのかと。
これは「わざと大海人皇子に断らせた」んだ。
さっき言ったように当時の常識では大海人皇子に皇位が行くはず。だから天智天皇の独断で大友皇子に皇位を譲ると周りから批判されかねない。
だけど大海人皇子自身の口から「いや天皇の座要らないっす」と言わせれば、天智天皇は「じゃあしょうがない、大友皇子に皇位譲るわ」という口実が作れる。
だから天智天皇は、「皇位を譲ろうか?」という誘いの裏に、(おい大海人皇子、この誘いはわざとやってるんだから断れよ?もし断らなかったらどうなるか分かってんだろうな!)という無言の圧力をかけていたわけ。
大海人皇子も天智天皇の真の目的を分かっていたから、断った。
断らないと下手したら殺されちゃうかもしれない。
しかも自分だけならまだしも、家族まで皆殺しにされるかもしれない。
自分と家族を守るため、出家する道を選んだんだ。
壬申の乱、勃発
大海人皇子は出家したあと少しして、天智天皇が亡くなる。
その後は手はず通り大友皇子が天皇になる予定。
これで皇位継承問題は一件落着・・・となれば良かったんだけど、それがそうも行かなかった。
大海人皇子が出家してしばらくしたころ、ある噂が飛び込んできた。
「大友皇子が兵を集めて、大海人皇子を殺そうとしているらしいぞ!」
これを聞いた大海人皇子は、「そこまでやられちゃ黙ってられねぇ!大友皇子を倒してやる!」と奮起する。
そこで出家先を出て地方を回り、地方豪族と話し合って協力を求めた。
その結果同情もあってか協力が得られることになり、今でいう関ヶ原あたりに軍を集結させる。
そこへやってきた大友軍と激しい戦闘を繰り広げた末に、なんと大友皇子を打ち破ることに成功する。
見事大海人皇子が勝利したんだ。
日本の歴史から見るとこういった反乱側が勝つ、ってことが少ない方なんで、そういった意味ではレアな結果だね。
その後大海人皇子は天武天皇として即位し、その後は新しい国づくりに精を出していく。
壬申の乱は白村江の戦いで進み始めた大化の改新に、一層ブーストをかけるきっかけにもなったんだ。
ちなみに天武天皇は、自分のことを日本で初めて「天皇」と称した人とも、初めて自分の国を「日本」と称した人とも言われている。
余談:実は白村江の戦いも原因の一つ?
壬申の乱は皇位継承をめぐる争いだった・・・というのが一番大きな要因ではあるけど、他にも「白村江の戦い」が壬申の乱にも影響していたとも言われている。(白村江の戦いについてはここから→https://jahistory.com/hakuson-kou/)
天智天皇は、白村江の戦いで生き残った百済の人たちをほったらかすわけにもいかないから、日本に住まわせてあげたり、外国からの攻撃に対応できるような施設を作ったりした。
それが民衆の不満を高め、そこへ大海人皇子が現政権に対抗するといい始めたのでみんな協力したのではないか、と言われているんだ。
この観点から見ても、白村江の戦いは日本にとって大きなターニングポイントだったとわかるよね。