治承・寿永の乱第一部では、一度頼朝が敗走することはあったけれども、のちに頼朝は力を取り戻し復活。
さらに頼朝以外の源氏(甲斐源氏)等も相次いで挙兵したんで、源氏は平氏に対抗しうる戦力を得つつあった。
今回見ていく第二部では、平氏が直面した絶対的な力を持った「清盛の死」と、源氏が直面した「義仲と頼朝の対立」がメインになるよ。
それじゃあ、詳しく見ていこう。
平清盛の死の影響
清盛は、治承3年の政変で後白河法皇を幽閉&官僚リストラによって朝廷を掌握(意:自分の思い通りにすること)した。
しかし、それをキッカケに平氏への不満が爆発、以仁王の挙兵から源氏の挙兵へと繋がってしまった。
しかも源氏の勢力は日に日に拡大してるというね。
この頃から、清盛の策にこれまでの余裕がなくなり、“焦り”が見え始める。
鹿ケ谷の陰謀で、清盛が西光に対して何を不満に思ってたのか覚えてる?
西光が不必要に延暦寺に攻撃を仕掛けようとしている事が不満だったんだよね。
当時は仏教がとても重要視されている時代で、清盛も熱心な仏教徒だった。
そんな仏教のために存在しているお寺に対して攻撃するってのは、とんでもない悪行だと思っていたわけ。清盛は。
なのに、なんと清盛は息子の重衡に命じて、1181年に興福寺や東大寺をはじめとするお寺を「平氏に対抗しようとしてるな、お前ら!」と言って焼き討ちを行ってしまう。(南都焼き討ち)
どうしちまったんだよ、清盛・・・。
まあ実際のところ、興福寺なんかは平氏を攻撃するための兵力も多く持っていたらしいから、清盛としては自分を守るために仕方ない行動だったのかもしれない。
でもこの一件で、清盛は「寺を燃やして罪のない人まで殺したやべーやつ」というレッテルを貼られてしまうことに。
平氏は源氏だけでなく寺社勢力も完全に敵に回すことになってしまった。
さらに悪いことは重なるもので、まさかのこのタイミングで清盛が病死。
敵対勢力も増えてきてこれからどーするよって時に、一番頼りになる平氏の主導者が死んでしまったわけだ。
これは大問題中の大問題だよね。
一応、清盛は死ぬ直前に「後のことは全部息子の宗盛に任せてあるから」と遺言を残していたので、宗盛が指導者の座を継ぐことになった。
・・・しかし、源氏も寺社勢力も敵対しているこの状況を乗り切るにはあまりに力不足。
しかも宗盛はものすごいダメ人間だったと史料に書かれてたりする。記述が本当なら、なおさらこの状況を打破するのは難しかったかもね。
最終的に宗盛の率いる平氏軍団は、次々戦いに勝利し上京してきた源義仲の軍勢に迫られ、京都から脱出することになる。(いわゆる“都落ち”)
源義仲の人気低迷
一方そのころ、源氏側はどうなっていたのか。
平氏が清盛の死でバタバタしていたころ、実は源氏側の主な反平氏戦力は頼朝の軍じゃなくて源義仲の軍だった。
義仲は頼朝のいとこね。
義仲は頼朝に先立って挙兵し、以後度々平氏軍と戦い勝利を重ねていく。
ついには京都まで進軍して平氏たちを今日から追い払うことにも成功する。(頼朝も一緒に上京したかったけど、関東地方の平定に追われて行けなかった。)
当時平氏による政治への不満や、飢饉による不安感に苛まれていた京の人々は、
「源氏が京に戻ってきたぞ!きっと平氏の政権よりも良くなるに違いない!」と期待に胸を膨らませていた。
ところが、入京して間もなく義仲は京中から総スカンを食らうことになる。
理由はいくつかあるんだけど、まず自分の軍の統率が取れてなくて、下っ端が京で強盗やら乱暴やら犯罪行為を繰り返してしまったこと。
当然京の人々からは「なにやってんだコイツら!」と思うわな。
あとは、次期天皇について余計に首突っ込んだこと。
平氏側が都落ちする際、(半ば強引に)天皇にしていた安徳天皇もつれていってしまったため、京都に天皇が居なくなってしまうという状態だった。
後白河法皇は、自分の院政を復活させるためにも安徳天皇ではない、別の天皇を即位させようとしていた。
そこで、安徳天皇の前の天皇である高倉天皇の子供を候補に挙げてたんだけど、そこにいきなり義仲が割り込んできて
「法皇さんよ、俺が世話んなった人を天皇にしたらどうよ」と勝手な提案をしてきた。
これが朝廷の官僚たちにはマジで不快だった。
「皇位継承のこと何も知らない田舎モンの武士ごときが、口出しすんじゃねぇ!」と散々批判され、次第に義仲は疎まれるようになってしまう。
そんなこんなで義仲は、後白河法皇から「お前もう京のことは良いから平氏追いかけてこい・・・」と出陣させ、厄介払いされてしまう。
義仲が嫌われ、平氏追討のため京を出たのと同時に、今度は京中で「頼朝さんに京都来てもらいたい!」という声が上がり始める。
前にもちょこっと触れたけど、頼朝はかつて京で仕事をしてたことがあるから、ある程度の礼節をわきまえていたからね。
義仲と頼朝の対立
後白河法皇が頼朝に「義仲はもうダメダメでさあ・・・。頼朝京都来てくれない?」と要請。
これに対して頼朝は、「いや~、今俺が鎌倉離れちゃうと東北の連中に攻められそうなんで行けないっす。」と返答。
しかし法皇としても、もうこれ以上義仲に任せたくないので「あの~、じゃあ平治の乱のことはチャラにするし、東日本側の支配権も認めてあげるから!それでもダメ・・・?」ともう一度お願いする。
これに頼朝はOKを出して、ついに頼朝は朝廷という強いバックを手にすることになる。
法皇が頼朝に提案した内容をまとめて発表したのが、寿永二年十月宣旨と言われる。
焦ったのは義仲。
宣旨の発表を聞くや血相を変えて京都に引き返した。
それもそのはず。
頼朝が義仲を差し置いて、朝廷と強く結びついてしまったんだからね。
ただでさえ信用を失っている義仲は、下手したら朝廷から切り捨てられかねない。
京都に戻ると、法皇に「なんで頼朝なんかにお墨付き与えてんすか!今すぐ取り消してくださいよ!」と迫るも、
「うるさい!文句があるなら頼朝と戦えばいいだろ。ちょうど京都に向けて、頼朝の弟の軍が来るから」と一蹴されてしまう。
この頼朝の弟の軍ってのは、源義経の軍のこと。
大軍をもって攻めてくることを知った義仲は、もうなりふり構ってられないと法皇の喉元に刀を突き付けてこう脅した。
「おい、俺も朝廷お墨付きの征夷大将軍に任命して、頼朝を討てと命令をだせ。さもないと命はねぇぞ!」ってね。
法皇はしょうがなく脅しを受け入れ、征夷大将軍に義仲を任命し頼朝を討てと命じる。
一応朝廷からのOKはもらったので、いざ戦闘に向かおうとしたら・・・。
なんと、付き従う部下たちがいない。
それもそのはず、法皇を幽閉して脅してまで頼朝を殺そうとする、その愚かな態度を見て部下たちはみんなイヤになっちゃったんだ。
結局ほとんど軍備を固められず、京にやってきた義経の軍に秒殺されて義仲はこの世を去ることになる。
以上、平氏のリーダーだった清盛の死、そして源氏のリーダー(?)だった義仲の死でした。
そして次回では、いよいよ源氏のリーダーに君臨した頼朝と、平氏残党とのラストバトルを見ていくよ。