ヤマト政権の時代、もっと言えば古墳時代は未だに謎めいた部分が多くある。
「ヤマト政権の中心は奈良県にあった」とか、「ヤマト政権は古墳時代に強い力を持っていた」だとかはもう通説になってきてるけど、
「ヤマト政権の勢力ってどこら辺まで影響あったのか」についてはイマイチはっきりしない。
そんなヤマト政権の勢力を窺い知るのに大きな助けとなるような、ある事件が6世紀に起きた。
これが、磐井の乱(いわいのらん)と言われるもの。
磐井の乱を詳しく見ていくと、6世紀ごろのヤマト政権の様子だったり勢力図だったりが結構見えてくる。重要な出来事なんだ。
日本書紀に書かれている磐井の乱
日本書紀(奈良時代に書かれた歴史書)によると、磐井の乱は「新羅という朝鮮の国と、筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)磐井が手を組んで挙兵し、ヤマト政権に反抗した」という風に書かれている。
具体的には、
- ヤマト政権は4世紀~5世紀にかけて度々朝鮮に兵を送り込んでいて、この磐井の乱のときも朝鮮(今回は新羅)にヤマト政権が出兵しようとしていた。
- ヤマト政権が攻めてくると知った新羅は、当時交流のあった筑紫(福岡県)の磐井に助けを求めた。
- 要請を受けた磐井は、挙兵してヤマト政権の朝鮮出兵を止めようとした。
- 磐井はヤマト政権側の豪族・大友氏や物部氏に負けた。
とまあドラマチックに書かれたわけなんだけどね、どうもこれが嘘くさい。
日本書紀以外のいくつかの史料では、磐井の乱は壮大なバトルとしては書かれていなくて、単純に「ヤマト政権に従わなかった磐井が殺された」と書かれていたりするんだ。
そもそも「ヤマト政権に歯向かって兵を出した」なんて他の史料には書いてない。
要するに日本書紀の記述は「かなり話を盛ってる」と考えられているわけだ。
(というのも、日本書紀は奈良時代になって“天皇家に都合がいいように”ちょくちょく歴史を改ざんしているのが研究で分かってきたから、この磐井の乱の記述にも疑いが強まってるんだ)
磐井の乱の真実とは
日本書紀の磐井の乱についての記述はちょいと胡散臭いので、研究者たちは他の信ぴょう性の高い史料から磐井の乱を探った。
その結果、こんな説が有力になった。
その説とは、
- 筑紫の豪族・磐井は、最初からからヤマト政権に対抗しようと思って乱を起こしたわけじゃなく、朝鮮の新羅と手を組んで九州に独自の国を作ろうとしていたのではないか?
- その結果、九州にも勢力を伸ばしたかったヤマト政権と対立し、ヤマト政権にボコられたのではないか?
というもの。
簡単に言えば、日本書紀では「ヤマト政権に磐井&新羅が歯向かってきた!大きな戦いになったけどヤマト政権が勝った!」としているけど、
実際は「磐井&新羅が独自の国を作ろうとしたところ、ヤマト政権の反感を買って攻め込まれた」ってことなんじゃないかと言われてるわけだ。
今のところ、後者の説が一般的になっているよ。
磐井の乱からわかること
でだ。
この磐井の乱の真相から推測できることがある。
例えば、この乱が起きた当時は“ヤマト政権の勢力は九州全部にまでは行きわたってなかったのではないか?”とかね。
もしヤマト政権が九州全部を勢力下に収めていたとしたら、「独自の国を作ろう!」っていう磐井の乱みたいなのは起こりづらいはずだし。
また、この磐井の乱の一件は「古墳時代、九州は本州とは少し異なる発展の仕方をしているのではないか」と考えている研究者の裏付けになったりと、各方面で重要視されている。