乙巳(いっし)の変はなぜ起きた?その真相や年号についても。

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日本は、ある事件(クーデター)をきっかけにそれまでの社会から大きな変革を遂げる。これを大化の改新というね。

 

で、大化の改新で何が変わったのか、というと色々あるんだけど・・・

イチバンはなんと言っても「律令制」(今でいう法律)という仕組みが導入されたことだ。

 

具体的に言うと、

“国には一人の王様がいて、その国の人と土地は全部王様のモノ”

“王様以外の民はみんな平等”

 

という、古代の中国から代々受け継がれてきた思想が基になった法律だ。

 

ところで、その大化の改新が起きるきっかけとなったある事件ってのが、今回見ていく「乙巳(いっし)の変」なんだ。

この乙巳の変がまた、いろいろな説があって面白いんだ。

 

詳しく見ていこう。

乙巳の変が起きた原因は「蘇我氏」

 

前回までの記事でも何度か書いてるけど、蘇我氏っていうのはホントに絶大な権力を持っていたんだ。

 

特に蘇我馬子は、物部氏を滅ぼして邪魔者も消して、聖徳太子とタッグを組んで政治の実権を握った。

馬子が蘇我氏の力を確実なものにしたといっても過言じゃない。

 

さらに聖徳太子が死んでしまうと、もう完全に蘇我氏の独断専行になっていってしまう。

馬子の子である蘇我蝦夷(そがのえみし)、さらに蝦夷の子である蘇我入鹿(いるか)も馬子のように横暴な政治をやりまくった。

 

一説には、当時の蘇我氏は天皇家の持つ権力を超えるレベルの力を持っていた可能性まであるらしい。まさに「強靭!無敵!最強!」状態だったわけだ。

 

 

しかし。

 

当然だけど、こんな蘇我氏の横暴をみんなが受け入れて許すはずがない。

不満を抱く豪族も多くいたし、中には「蘇我氏をぶっ潰してやりたい・・・!」と考える人もいた。

 

蘇我入鹿が殺害される

 

「打倒!蘇我氏」勢の急先鋒を担ったのが、中臣鎌足と中大兄皇子。

 

最初に手にかけられたのは蘇我入鹿だった。

入鹿は、自分たち蘇我一族にとってジャマな存在だった聖徳太子の子(山背大兄王)を追い込んで自殺させていた。

 

これはあまりに横暴すぎやしないか、ということで豪族たちからヘイトが集まっていたんだ。

というわけで入鹿が最初のターゲットになった。

 

入鹿暗殺ミッションに参加したのは、中臣鎌足・中大兄皇子のほか、蘇我倉山田石川麻呂という蘇我氏側の裏切り者、あとは鎌足の子分2人。

 

鎌足と中大兄皇子は、「朝鮮から使者来たからセレモニーやります。入鹿さんも来てね!」と言って入鹿をおびき寄せることに成功した。

 

当初の作戦では、石川麻呂が文書を読みあげている隙に鎌足の子分たちが剣で斬り殺す、という計画だった。

鎌足は弓、中大兄皇子は槍を持って後方待機。

 

入鹿を部屋に入れて、いざ作戦開始。

石川麻呂は予定通り文書を読み上げて隙を作ったんだけど・・・。

 

なんと肝心の子分たちが待てど暮らせど出てこない。

どうやら入鹿を殺すことにビビりまくってしまったらしい。

 

この状況に石川麻呂も(えぇぇ~・・・!誰も出てこねえじゃんどうすんだよ!入鹿に変な目で見られてんだけど・・・!)と焦り始める。

この様子を見た中大兄皇子は(アイツらビビりやがって!もう俺がやってやる!)と考え自分から入鹿を斬りつけに行った。

 

やっと踏ん切りがついたのか、子分二人も参戦して入鹿をメッタ斬りにした。

これにて入鹿暗殺は成功。

 

蘇我蝦夷は自殺

 

入鹿を殺したことが父である蝦夷に知れるのは時間の問題。

蝦夷が知れば、戦闘になる可能性は大いにある。

 

そこで、戦闘準備をしながら蝦夷側の軍勢にコッソリ「なあ、お前ら蘇我の側につくのやめないか・・・?」と話を持ち掛ける。でもって、これが成功する。

蝦夷側につくはずだった軍勢は集まらず、蝦夷側はまともな戦闘ができない状態に。

 

それを悟った蝦夷は、自分の家に火を放って運命を共にした。

 

かくして蘇我氏は滅亡し、新しい時代の幕開けとなるわけだ。

 

ちなみに年号についてだけど、

乙巳の変は645年に起きた事件で、次回以降詳しく見ていく「大化の改新」は翌年の646年から始まるよ。

 

乙巳の変の黒幕について

 

ここからがヒジョーに面白いとこなんだけど、乙巳の変は「中臣鎌足と中大兄皇子が首謀者ではないのではないか?」という説があるんだ。

 

まず、中臣鎌足・中大兄皇子が首謀者じゃないという説の根拠を挙げよう。

 

  • 鎌足も中大兄皇子もかなり若く(どちらも20代~30代)、その若さでクーデターを実行するための周りへの根回しができたのか疑問。
  • 日本書紀の「乙巳の変」の記述が、鎌足や中大兄皇子について脚色している(盛っている)可能性がかなり高い。
  • そもそも蘇我氏に対抗できるだけの経済力を持っていたのか?

 

などなど・・・。

 

鎌足と中大兄皇子を首謀者と考えるとちょいと違和感が出てきてしまう、というわけだね。

 

 

で、今有力な説として「黒幕は軽皇子と阿倍内麻呂」説がある。

 

軽皇子(かるのみこ)は天皇家の血を受け継いでいるものの、天皇に指名される順位がかなり下だったので、何もなければおそらく天皇になることはできなかった人物。

 

軽皇子のお嫁さんは阿倍内麻呂という豪族の娘だったんだけど、どうもこの阿倍内麻呂はかなりの権力・経済力を持っていたと推測されている。

軽皇子自身も、難波(現在の大阪府)では大きな権力を持っていた。

 

軽皇子&阿倍内麻呂タッグともなれば蘇我氏に対抗できる力がある。

そこで蘇我氏を倒し、蘇我氏の操り人形状態の天皇を辞めさせ、軽皇子が天皇になろうとしたから乙巳の変を起こしたのではないか、というわけだ。

 

鎌足たちはそのクーデターを起こす実行犯に過ぎなかったというんだ。

 

実際軽皇子は乙巳の変の後「孝徳天皇」として天皇になってるし、安倍内麻呂も孝徳天皇に命じられて後にとても高い地位についている。

孝徳天皇は都を難波に移している(=自分の影響力がある地域に移した)こともこの説を裏付けている。

 

でもこの説にも更なる反論があったりして、未だに議論が行われている。

調べてみると色々出てくるから、興味があったら見てみてほしい。

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