この記事では戦後首相を務めるも2ヵ月で退陣した石橋湛山について解説するよ。
私は早稲田14年前に早稲田大学を2学部受験したけど、早稲田の日本史ってとにかく史料問題が必須だったんだ。
史料問題の中でも石橋湛山は必須とも言える人で、『青島は断じて領有すべからず』や『一切を棄つる覚悟』の資料は戦前の石橋湛山の小日本主義を表す史料だったんだよね。
今日は石橋湛山という人物について見ていこう。
石橋湛山とは?
石橋湛山は『東洋経済新聞』の記者として、
・自由主義
・民主主義
・小日本主義
を一貫して主張した人物なんだ。第一次世界大戦にも反対していたし、大正デモクラシーの頃は国民主権や普通選挙を主張していたね。
そして石橋湛山の最大の功労は日本が朝鮮や満州に乗り出して領土拡大をしていた時期でも
一貫して植民地の放棄、平和的な経済的発展などの政策を提唱していたんだ。
ご存知の通り、当時の日本は軍部が政治を支配して拡大主義に乗り出していたから、
政府の政策には真っ向から反論する立場だったわけ。
それが入試にも良く出題される『青島は断じて領有すべからず』や『一切を棄つる覚悟』の史料にも表れているよね。
石橋湛山の凄いところは、雑誌の発禁主義をくらっても粘り強く自由主義を提唱し続けていたんだ。
戦後の政界進出
石橋湛山は戦後の日本の混乱時期に政界に進出する。
吉田茂内の時に蔵相となるんだけども、戦前の『東洋経済雑誌』の時に経済評論家として活躍していてた。
経済の神様と呼ばれるケインズの『貨幣論』を研究したり、マルクス経済などの勉強会も開いていたから経済に明るい人だったんだよね。
出身は早稲田大学の哲学科なのに経済評論家として活躍していたって事はかなり勉強熱心な人だったんだね。
石橋湛山は吉田茂内閣の時に積極財政を推進して、経済の立て直しにはかったんだ。
GHQは緊縮財政主義だったから、GHQにも真っ向から向かっていった人だったんだね。
その後、4年間の公職追放を経て、鳩山一郎内閣の退陣後に首相になるも肺炎のため65日間という短い在任で退陣してしまうんだ。
首相を辞めた後は
その後、体調が回復した石橋湛山は、
アメリカ、中国、ソ連、日本
の4国が手を取り合って仲良くしていく未来に向けて努力したんだ。
ご存知の通り、その時は冷戦。アメリカとソ連が仲良くしていくなんてありえない話のように思えるも
石橋湛山は中国を2回訪問して、ソ連を1回訪問しているんだ。
「日本と中国は両国民が手を携えて極東と世界の平和に貢献すべきである」って発言には感動しちゃうよね。
ほら、最近も平和主義者はたくさんいるけども、平和を訴えているだけでしょ?
石橋湛山は実際に平和に向けて行動し続けたカッコいい人なんだ。