この前は蒙古襲来(元寇)の文永の役について学習したね。
文永の役では、元軍や高麗軍の集団戦法や、「てつはう」などの火器の威力に日本の武士は悩まされたんだ。
そこで、今回は幕府が蒙古襲来に備えて編成した異国警固番役について説明するよ。
異国警固番役とは?
異国警固番役とは、1271年に執権・北条時宗によって蒙古襲来に備え、九州北部を防備するために編成された番役のことなんだ。
1271年に幕府は、九州に所領のある御家人を下向させて異国警固番役を編成し、
翌年には九州定住の御家人に筑前・肥前の要害警備を命じたんだ。
異国警固番役には、御家人だけではなく、
本所一円地(=地頭職非設置の荘園・公領で本所の支配が貫徹している土地)の非御家人も動員されたんだ。
また、文永の役が終わった後、元のフビライは日本征服の望みを捨てずに、1275年に長門へ使者を送って来たんだ。
それを受けて、執権・北条時宗は異国警固番役を強化したんだ。
また、長門に使者が来たと言うことで、長門・周防・安芸の御家人には長門警固番役を課し、
長門国の守護にこれの指揮をまかせたんだ。
注意してほしいのが、異国警固番役が設置されたのは文永の役の前で、
異国警固番役が強化されたのは文永の役の後なんだ。
実はこれ、2016年の早稲田大学人間科学部の入試でも関連問題が出題されているんだ。
ぜひおさえておいてほしい。
異国警固番役を廃止した執権は誰?
ところで、異国警固番役はいつまで続いたか知ってる?
実は、異国警固番役は鎌倉幕府滅亡まで続いたんだ。
だから、異国警固番役を廃止した執権はいないということになるんだ。
しかも鎌倉幕府が滅亡した後も、石築地(いしついじ)役や博多警固役のように名前を変えて存在はしていたんだ。
石築地役とは、文永の役のあとに、九州に所領を持つ武士に課された石築地構築の課役のことなんだ。
再度の蒙古襲来に備えて、南北朝期まで続いたよ。
石築地とは石塁とも呼ばれ、文永の役のあとに、博多湾沿岸の、西は今津から東は香椎まで、延べ20㎞に渡り築かれたんだ。