前回は池田屋事件について話したね。
松平容保と一橋慶喜の暗殺計画を事前に知った新撰組が、池田屋事件で長州藩の攘夷派を襲撃した事件だね。時をほぼ同じくして。久坂玄瑞や真木和泉なんかも京都に挙兵しているんだよ。
ちょうど向かっている途中に池田屋事件を知ったような形かな。今日はそんな禁門の変についていってみよう。
禁門の変は別名:蛤御門の変
禁門の変ってのは、1864年の池田屋事件を契機に京都に入って暴れた事件だね。
禁門ってのは存在しないの。
蛤御門(はまぐりごもん)で闘いが最高潮を迎えたから、別名:蛤御門の変って言うわけね!
じゃあなんで禁門の変って言うのさ?というと天皇の住まいである御所は侵してはならない神聖の場所だったじゃん。だから、禁裏って言われてたのね。御所にあるすべての門は「禁門」って言われてたから、禁門の変になったわけ。ややこしいねー。
ちょっとブレイクして、長州藩の気持ちに立ってみようか。
色んな出来事があったから、すげぇ時間が経っているような気がするけど。禁門の変って通商条約からたったの6年しか経ってないのね。
しかも今の6年とはワケが違うよ。現代だったら情報が飛び交うのが早いけどさ。当時は手紙とかだから。
長州藩は、外国人うぜぇ組の代表だったわけじゃん。孝明天皇も熱心な攘夷派だったのに、さすがに影響力を高める長州藩を手に負えなかったわけ。
だから八月十八日の政変で公卿と長州藩の攘夷派を追い出したでしょ。
「おいおい、マジかよ。外国人追い出すんじゃねぇの?」
「ここまできて、引き下がれるわけねぇだろ!!」
ってのが、長州藩のスタンスね。だから、長州藩は公武合体派の抑圧なんか、ものともせず攘夷をしようと熱心に活動するわけだね。
いいかな。ここで長州藩の立ち位置がわかっていないと、禁門の変を理解できないよ。
禁門の変の結末
長州藩の禁門の変での目的ってのは、公武合体派を京都から追い出すことね。
長州藩 vs 会津藩・長州藩・新撰組・桑名藩
まぁ勝てるわけないんだけども、当初の長州藩vs会津藩では決行良い線までいってたのね。
でも、その後西郷隆盛率いる薩摩藩の援軍にやられちゃうわけ。
日本史組は、もちろん薩長同盟をご存じでしょ。
1864年の段階で、長州と薩摩はドンパチやってんのに、その2年後には同盟を結んでいるってのは本当にすごいことでしょ。
長州藩は、池田屋事件や禁門の変で幕府にコテンパンにやられるわけだから、攘夷ってよりは倒幕に気持ちが傾いていくのね。だってこの池田屋事件や禁門の変の頃には、何があったっけ?
そう、四国艦隊下関砲撃事件だよね!
外国船を砲撃した長州に対して、四国艦隊アベンジャーズがアベンジするわけじゃん。そこで外国の強さを知った長州藩は攘夷は難しいと判断して、江戸幕府を倒しにいくわけだよね。
だんだん歴史がつながってくると、一気に知識が増えてくるよ。
何度も何度も記事を読んで流れを掴んでよ。