祝!江戸幕府爆誕!!いよいよ徳川の時代が始まるね。
その前に、前回話した関ケ原の戦いについておさらいしようか。関ケ原の戦いは徳川家康率いる「東軍」と、石田三成率いる「西軍」による天下分け目の戦いだったよね。そしてこの戦いを制したのは家康率いる「東軍」。西軍のボスは処されて、西軍についた大名はみんな領土没収!もう敵はいなないぜ!・・・と思ってたら、まさかの展開。
まだ豊臣の勢力が何やら企んでいる!
一体どうなっちゃうのか、詳しく見ていこう。
秀吉の子、秀頼
実は不思議なことに秀頼、関ケ原の戦いに加わってないのよ。なのに大幅減封食らってんの。
なんでかっていうと、西軍についていた豊臣サイドの大名に貸していた土地を家康に奪われちゃったんだ。それで何にもしてないのに減封になっちゃった。
ところで、関ケ原の戦いに勝利してめでたく天下をとった家康だけど、まだ少し不安があるのね。それは、秀頼の軍勢がいまだに家康に従わずに大坂城に居座っている、ということ。
家康もこの時はまだ秀頼をどうしようかと頭を悩ませていたんだ。豊臣と共存していこうか・・・それともほっとくと危険だから滅ぼしてしまおうか・・・。そんなある日、家康の迷いを断ち切るような大きな出来事が起きる!
方広寺鐘名事件
この事件、事件名だけだと「何の関係があるの?」って思うよね。
事の発端は、秀頼は方広寺という寺を再建した際につくった鐘(除夜に108回たたくあの鐘ね!)に刻まれていた文字なんだ。
家康側が、その鐘に刻まれていた「国家安康」「君臣豊楽」という文字を、「家康の名前を分断して、豊臣家の繁栄を願ってやがる!」と解釈しちゃったんだ!
ちょっと分かりづらかったかな。「国家安康」って、「家康」の間に「安」が入ってて分断してるように見えるでしょ?続いて、「君臣豊楽」は豊「臣」が「豊楽」って読める気がするよね。
新たな戦いの火種が・・・
もちろんこれは豊臣側にしてみればひどい言いがかり。でもこれで激おこの家康は、この事件をきっかけに秀頼を滅ぼしてしまおうと考えるようになる。そしてこの方広寺鐘名事件は、家康にとって豊臣を攻める口実になったんだ。
そして、この後ついに家康と秀頼の決戦が始まる・・・。