今回はいよいよ保元の乱本編とその後について見ていくよ。
保元の乱に至るまでの対立関係については、過去記事で詳しくやってるから分からない人はここから
- 皇室内の対立→https://jahistory.com/hougen-no-ran-zenshi1/
- 藤原氏内の対立→https://jahistory.com/hougen-no-ran-zanshi2/
- 源氏内の対立→https://jahistory.com/hougen-no-ran-zenshi3/
- 平氏内の対立→https://jahistory.com/hougen-no-ran-zenshi4/
保元の乱は、これまで続いてきた「藤原氏が政治の主導権を握る」時代が終わりを迎えることになる。
さらに源氏と平氏の対立が際立ったり、平氏政権への足がかりができたりね。
とにかく重要な乱なので、しっかり見ていこう。
対立構造のおさらい
これまでの4記事で毎回毎回書いてたから、全部読んでくれた人はもうわかるよね。
保元の乱は「皇室」「藤原氏(摂関家)」「源氏」「平氏」内でそれぞれ対立構造があったと。
図にするとこんな感じだ。
保元の乱の発端
4つの対立、特に皇室と藤原氏内の対立は一触即発状態だったわけだけど、じゃあ一体何が“一触”して爆発しちゃったんだ?って話だよね。
保元の乱は、鳥羽上皇の死にまつわるゴタゴタが原因となって起きた。
鳥羽上皇の死は鳥羽上皇派のピンチ
鳥羽上皇が病にかかり、もう助からなそうだな・・・ということが分かると、鳥羽派の藤原得子や藤原忠通は超焦りだした。
得子や忠通たち鳥羽派は、これまで数々の策略で崇徳上皇が院政を行えないようにしてきたよね。
強制的に譲位させたり、噂を流したりして。
ただ、こういった崇徳派に対する嫌がらせは、ひとえに鳥羽上皇の「絶大な権力」があったから出来たこと。
つまり鳥羽上皇が死んでしまったら、鳥羽派は崇徳派を抑えつけるために必要な「絶大な権力」を失ってしまうことになるワケ。
おまけにこれまでの嫌がらせで崇徳派のイライラはMAX。
もし崇徳派がこの状況を見て「よっしゃ積年の恨み晴らすチャンスだ!」と勢力を固め始めたら、鳥羽派はかなりヤバい状況に陥る。
そこで鳥羽派は、平清盛や源義朝など、有力な武士たちを集めて院の警護をさせることにした。
崇徳上皇の怒りが絶頂に
こんな緊迫した状況下で、さらに緊張感を増すような事件が発生する。
鳥羽上皇がいよいよ亡くなる、という知らせを受け、
「いくら嫌がらせをされてきたとはいえ、せめて兄の死に際くらいは隣にいよう・・・」、と崇徳上皇が見舞いに行ったところ。
なんと門前払いを食らってしまう。
それも鳥羽上皇が事前に、「崇徳だけは絶対見舞いさせんな」部下に命じていたらしい。
崇徳天皇もこれにはもうカンカン。
まあそりゃそうだよね・・・。
怒りの矛先も定まらぬまま家に帰ることを余儀なくされてしまった。
この一件は鳥羽派にとってもかなりよろしくない出来事だった。
崇徳派がこの一件で一致団結し、鳥羽派に攻撃を仕掛けてくる可能性がさらに高まってしまったわけだからね。
保元の乱、勃発
このまま何もしないと状況が悪くなると見た鳥羽派は、先手を取って崇徳派に団結するヒマを与えず潰そうと考えた。
そこで、後白河天皇の勅命(ということにして天皇を利用)で
- 崇徳派の援軍に駆け付けようとした将軍をとっ捕まえる
- 頼長に謀反の疑いをかける
- 崇徳派が荘園から軍を集結させることを禁止
といった謀略を仕掛けた。
効果は抜群で、崇徳派は兵を動員することもできず、援軍も来ずという状況に陥った。
崇徳派は結局、鳥羽派に比べるとかなり小規模な軍で戦うことを余儀なくされてしまった。
頼長に謀反の疑いがかけられてから2日後、ついに崇徳派と鳥羽派の戦闘が開始された。
いざ戦闘が始まると最初は崇徳派・鳥羽派双方とも互角と言える戦いを繰り広げた。
がしかし、鳥羽派は数で勝っていたことや、鳥羽派の武士・源義朝が良い作戦を次々立てたこともあって鳥羽派が優勢になる。
結局頼長は戦闘で負傷のち死亡、崇徳上皇は逃亡したのち投降、鳥羽派の勝利が確定した。
乱後の情勢の変化
保元の乱によって、皇室・摂関家・源氏・平氏それぞれに、多い少ないの違いはあれど変化が起きた。
皇室
保元の乱の戦後処理で崇徳上皇は島流しになり、後白河天皇はその後上皇となって院政をすることになる。
・・・がしかし、形式上は後白河院政になったものの、これを裏で操る人物が現れる。
実はこの保元の乱関連で、崇徳派の悪いうわさを流したり、鳥羽上皇の死に際して崇徳派に先制攻撃を仕掛けるよう仕向けたりしたのには、
ある一人の坊さんによるものと考えられている。
信西、っていうんだけどね。
この人物はこの後起こる平治の乱までたびたび登場する。
藤原氏(摂関家)
崇徳派だった頼長は死に、藤原氏のトップは鳥羽派についた藤原忠通!めでたしめでたし・・・とはならなかった。
頼長は周りから嫌われてはいたものの、立場上藤原氏のトップだった人物。
その頼長が罪を犯したということで、次の藤原氏トップは後白河天皇による「宣旨」で指名される、という方式になった。
これ、一見どうでもいいことに見えて実は一大事。
藤原氏一族のトップが、天皇に命じられて就任するというのは、見方を変えれば「藤原氏より天皇のほうが権力が上」という事実を世に知らしめることになるよね。
つまり、天皇の介入が行われたことで、藤原氏の権力が衰退したってこと。
この保元の乱を機に、藤原氏のもっていた政治的な権力は大きく削がれることになる。
源氏
源氏は結論からいうと、源氏としての力をかなり失うことになった。
というのも、為義ら崇徳派についた源氏たちはみな死刑に処されてしまい、
義朝は鳥羽派だったから残ったものの一族全体の戦力は減ることになったんだ。
実はこの「崇徳派についた源氏全員処刑」にはちょっとした小話があってね。
義朝は、いくら対立していたとはいってももとはと言えば皆「親」「兄弟」。
いくらなんでも、自分の親や兄弟が死刑になるのはあんまりだと思い、
義朝は「自分が保元の乱で立てた功績を、為義たちの罪と相殺してチャラにしてくれないか?」と朝廷側にお願いしたが、後白河天皇の裏にいる僧侶・信西によって却下されたという。
信西は平清盛と親しく、清盛が源氏の勢力拡大を嫌がったために、信西がわざと却下したという説もある。
このときの恨み・不満が、のちの平治の乱にもつながっていくことになる。
平氏
忠正は崇徳側についたので処刑され、平氏一族は清盛が取り仕切ることになった。
清盛は鳥羽派の面々からものすごく評価されたこともあって、どんどん政治の中枢に入り込んでいく。
でこの後起きる平治の乱を機に、平氏の時代が到来することになる。
どうだったかな。
保元の乱で、それぞれの情勢がかなり変化したよね。
皇室内・藤原氏内の対立関係は一旦消滅したものの、今度は源氏と平氏の間で対立が生まれ始めることになる。
次回以降、その源氏と平氏の対立もからんだ平治の乱について見ていくよ。