前回は、藩政改革の概要について見てきたね。
藩の経済を大改革して、財政難を乗り切ろうとしたもので、成功した藩もあれば失敗して崩壊する藩もあった。
今回は藩政改革に成功した藩の中から、熊本藩の名君と称えられる細川重賢(しげかた)について見ていくよ。
重賢も体験した「財政難」
細川重賢が熊本藩の藩主になる前、熊本藩は非常に厳しい財政難だった。
重賢のお父さんの時代で既に40万両の借金、お兄さんの藩主時代では度重なる凶作・過度な出費によってさらに悪化する。
重賢自身も貧乏生活を体験していた。質屋に通って借金をしていたともいわれているよ。
そんな中、お兄さんが突如として幕府内で斬り殺されてしまう。しかも勘違いで。
重賢のお兄さんには子供がいなかったんで、末期養子として重賢が藩主を継ぐことになった。
肥後の鳳凰と呼ばれた男
藩主となった重賢は、すぐさま藩の財政再建に取り掛かった。
堀勝名という人物を筆頭に、改革を命じる。
堀は大坂で鴻池家、加島屋といった豪商に「お金を貸してくれ!!」と頭を下げに行く。
でもあまりに藩の財政が厳しいんで、鴻池家からは断られてしまう。
しかし加島屋とは何とか話をつけ、大きな資金を得ることになる。
重賢は藩の質素倹約に努め、江戸の藩邸が一年間に使える額を制限して、費用の出費を抑えるようにした。
さらに行ったのが、「専売制」の推進。
重賢は、「今後米主体の経済だけではやっていけない」ということに気づいていた。だから、楮や生糸など米以外の製品を積極的に作らせるようにした。
さらに藩内でできた製品はお金を貸してくれた加島屋を通じて大量に販売することに成功。
この利益でどんどん財政が好転していく。
これと同時に飢饉の対策に米の備蓄もしていたため、天明の大飢饉では領民をたくさん助けることができた。
まとめ
重賢は、幕府の財政がなぜ傾いているのか、どこを修正すればよいのかをしっかり理解していたからこそ藩の大改革を成功させることができたんだね。