1953年にソ連のスターリンが亡くなったことで、ソ連国内のある程度の雪解けモードが広がったね。
当時、鳩山一郎内閣もアメリカとちょっと距離を取って「自主外交」に大きく舵を取っていたから
ソ連も日本に対して対話に応じる姿勢を示したんだ。
その結果、1956年に日ソ共同宣言を結ばれたわけだけど、そこで歯舞、色丹を返還するって言ってるのに
いまだに返してくれないんだよね。
今日はこの北方領土問題の歴史的経緯とロシアの主張について見ていこう。
北方領土問題の歴史的経緯
〇日露和親条約
さかのぼること、1855年。
江戸幕府とロシアの間で明確に国境を策定したのがこの日露和親条約だね。
樺太は両国どちらのものでもなく、択捉島と得撫(ウルップ)島の間で国境を策定する事で決定していたんだ。
北方領土問題でもめてる4島の、択捉、色丹、国後、歯舞は日本人が昔から住み着いていた場所で、
この日露和親条約で明確に日本の領土となっているんだね。
その後、20年経って1875年に『樺太千島交換条約』を締結して樺太を放棄する代わりに千島列島はもらうで。
という事になった。
〇ポーツマス条約
その後1904年の日露戦争で勝利した日本はロシアと『ポーツマス条約』を結んで樺太の南半分を手に入れたんだ。
樺太を半分にぶったぎって、下の部分が日本の領土になったわけだね。
〇日ソ中立条約
1941年に日本とソ連は『日ソ中立条約』を結んでいて、相互不可侵を約束していたんだ。
有効期限は5年としていて、つまり1946年4月までは有効で満了1年前までにどちらかが破棄の通告をしない場合は自動延長となっていた。
〇ヤルタ秘密協定
1945年2月にソ連、イギリス、アメリカでヤルタ会談が行われたね。
いわゆる戦争も終盤に入ってきて、ドイツや日本をどうしようかといった会議。
ソ連はアメリカと秘密協定を結んで、ソ連が日本に参戦する事や樺太・千島をロシアの領土にすることを勝手に秘密に決定していたんだね。
〇ソ連の参戦
1945年8月8日、広島に原子爆弾が落とされて日本の敗戦がほぼ決定的、あとはポツダム宣言を受諾するというところで、
急にソ連が参戦。
8月15日に日本はポツダム線宣言を受託したにもかかわらず、ソ連は千島列島されには北方領土に攻め入ってきて
9月15日までに北方領土まで占領。
ヤルタ秘密協定では千島列島までだったのに、北方領土まで入ってきてしまった。
〇サンフランシスコ平和条約
1956年のサンフランシスコ平和条約で、日本は戦前に保有していた台湾、南樺太、千島の放棄を正式に決定。
ただここで千島列島がどこまでなのか?というのがうやむやになってしまった。
日本側の吉田茂は歯舞と色丹は確実に北海道の一部だ、千島列島に属するわけない!と明言したけど、
択捉島と国後島は昔から日本人が住んでいて日本の領土だったと、歩み寄りを見せてなのかあやふやな表現をした。
アメリカも賛同していたけど、東西冷戦中だったのでソ連に強くは言えなかった。
〇日ソ共同宣言
1956年に日本はソ連と日ソ共同宣言を結ぶ。
その中で、歯舞と色丹島の返還を約束する!とソ連側は同意したけど、日本はあくまで4島の返還を要求。
これは実はアメリカ側の圧力があったんだ。
ソ連とアメリカは冷戦中だったので、ソ連の要求を日本が簡単に飲むにはアメリカ的にはNG。
『4島返還を強く求めないと、沖縄返さないぞ』
といった脅しがあって、日本は二島返してもらう予定が交渉は難航。
時はアイゼンハワー大統領のダレス国務長官の時だね。
これ以降、北方領土問題は解決しないまま現代に至る。
北方領土問題に関するロシアの主張
ここまでの内容をまとめると、
1855年の日露和親条約で明確に北方領土は日本の領土となっていて、
ヤルタ協定で勝手に密約して、日本は敗戦した後にも関わらずソ連は日本との条約を破って北方領土を奪った!
というのが日本の主張だと思う。
一方、ロシアの主張は、
ヤルタ協定は確かに密約だけど、敗戦後に日本を占領するアメリカと約束したのだから有効。
ソ連は対日参戦して4島を支配したけども、1956年の日ソ共同宣言で2島は返してやると言ってるのに日本からは誠実な回答が得られていない。
というものなんだね。
事実だけ追っていくと、それが国際法を破っているのは明白だけど
政治的にはなかなかそうはいかない。
ソ連が対日参戦をしたことで日本がポツダム宣言を受託しだという見方もあれば、
参戦したがっているソ連をおさえるためにアメリカが譲歩して北方領土までにした。
という考え方もあるよね。
現代でこそ、イメージはわかないけどそれまでの戦争では
戦争で勝った国が負けた国の領土を獲得するというのは当然の暗黙のルールだったため
約束だどうこうではなく、勝った者には勝った者の論理があって、負けた者負けた者の論理があるわけだね。