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広田弘毅内閣がした事と広田弘毅はなぜ死刑になったのか?

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大学受験の日本史では広田弘毅はそんなにスポットを当てられない人物かもしれないが、

この人もまた興味深いストーリーをもった人物なんだ。

ご存知の通り、第二次世界大戦の後、極東国産軍事裁判にてA級戦犯の7名は死刑になるんだけども、

残りの6人は全員軍人で広田弘毅だけは文官だったんだ。広田弘毅は外交官だったからね。

広田弘毅の刑は厳しすぎる!という意見もたくさん出たんだけど、彼は一切の弁論をせずに死刑を受け入れるんだ。裁判が始まった時には妻は『夫が思い残す事が無いように』と服毒自殺をしているんだよ。壮絶だよね。

 

裁判の時は僅差で死刑になった広田弘毅だけども広田弘毅内閣をきっかけに日本は軍国主義体制に進んでいくんだ。

実は広田弘毅は戦争回避に全力を尽くした人物なんだけどね・・・

極東国際軍事裁判では、『文官の広田弘毅は組閣した時に、軍部からの圧力に従っただけだ』なんて意見も出ていたんだけどね。

 

広田弘毅内閣がした事

軍部大臣現役武官制の復活
日独防共協定の締結

 

二・二六事件をきっかけにして陸軍は軍部内の統制回復をはかるとともに、次の内閣の組閣にかなり介入したのさ。

アメリカとイギリスなんかと仲良くしているやつはけしからん!

という事で、新英米派や自由主義者っぽいやつは排除して選ばれたのが広田弘毅。

斎藤実、岡田啓介内閣の時に外相を務めていた人物なんだね。

 

ちょっとしたエピソードだけど吉田茂は当時新英米派だったので、入閣を陸軍側に拒否されているね。

 

広田弘毅が軍部大臣現役武官制を復活させた事で、軍部とくに利k軍の政治的発言力がどんどん強くなっていき、広田内閣は莫大な軍事予算を計上したんだよ。

 

広田弘毅内閣の軍部大臣現役武官制がどうしてそんなに問題なのか?に関しては、『広田弘毅(こうき)内閣でついに軍部大臣現役武官制が復活…。その問題点とは』の記事を読んでね。

 

そして広田弘毅は日独防共協定を結んだよ。

1936年11月に調印。

当時はソ連にてスターリンが共産党の一党独裁体制を強めていて、5か年計画を通じて社会主義国家としての脅威を増大させていたんだ。

日本は第一次世界大戦中から共産主義者たちに対して脅威を感じていたから、ソ連の思想は怖かっただそうね。

1934年頃にはソ連の国際社会での発言力ってどんどん強くなっていったし、スターリンは国内で反対派を次々に殺しまくっていたから、日本はビクビクさ。

ソ連の脅威に対応するために、陸軍の主導で日本は思想が似ていたドイツと日独防共協定を結んで翌年にはイタリアも参加したんだね。

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