良く知られていることだけど、日本における“女性の参政権”が本格的に実現したのは第二次世界大戦後なんだよね。
ここからわかるように、第二次大戦以前は基本的に女性の社会的権利は今と比べてかなり少なかった。
昔は家父長制の意識が強かったこともあって、「女性に権利を!」と声をあげづらい風潮があったってのも理由の一つだろうね。
しかし、なんと第二次大戦よりずっと前の明治時代に、女性の権利を獲得すべく活動していた人がいた。
それが平塚らいてう(読み:らいちょう)。きっと名前は聞いたことあるよね。
じゃあ平塚らいてうがどういう活動をしていたのか、詳しく見ていこう。
平塚らいてうと青鞜社
平塚らいてうは、代表的な「女性解放運動家」として知られている。
女性解放運動ってのは、今でいうフェミニズム的な思想に近いかな。
(・・・といってもフェミニズムも色んな思想に分かれてるから一概には言えないんだけどね。)
簡単に言うと、女性に不利な法律とかの是正を求めたり、女性への参政権を求めたりする運動のことだね。
平塚らいてうの女性解放運動としてまず挙げられるのが、「青鞜社」の設立だ。
青鞜社は、
「世の中の女性たちはみんな、“性差別”“男尊女卑”的な社会のせいで自分を抑えつけちゃってるんじゃない?その意識、改革しようぜ!」
という理念のもと、女性のみで設立された団体。
主な活動は、『青鞜』という雑誌の刊行。
この雑誌の創刊号で平塚らいてうが、
「元始、女性は太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く。病人のような蒼白い顔の月である。私共は隠されてしまった我が太陽をいまや取戻さねばならぬ」
と書いて、“女性よ今こそ立ち上がれ!(超訳)”と鼓舞したことで有名。
しかしこの『青鞜』は当時の男尊女卑的な社会では反発が大きく、結構叩かれてのちに廃刊となってしまう。
新婦人協会の設立
平塚らいてうは青鞜社での女性解放運動をさらに発展させるべく、次に新婦人協会という団体を設立した。
この団体は、当時既に女性解放運動のカリスマ的存在となっていた平塚らいてうと、市川房枝という女性解放運動家が中心となって設立された。
これは青鞜社の活動に比べてより政治的で、「女性への参政権を!」とか「花柳病男子結婚制限の法制化を!」といった主張をしていた。
※花柳病男子結婚制限は、“性病にかかった夫に病気移された妻が、不当な扱いを受ける”という事件を聞いた平塚が
「性病かかった男子は結婚できないようにする法律作れ!」と主張した。のちに与謝野晶子に批判されることに。
新婦人協会の大きな功績としては、当時治安維持法で規定されていた「女子は政治の演説とか聞いちゃダメ!」という差別的な法律が撤廃された点が挙げられる。
しかしこの治安維持法改正までは良かったけど、平塚と市川の運営方針の違いから二人が相次いで協会から脱退してしまったため、
カリスマを失った協会は解散することになる。
こうして、平塚らいてうが設立した青鞜社、新婦人協会は一定の功績を残しつつも短命に終わる。
・・・けど、女性の社会的地位向上を当時の社会の中で問題提起したその姿は、第二次世界大戦後の女性解放運動にも大きな影響を与える事になる。