前回紹介した河村瑞賢が携わった大事業の一つ、それが「航路開拓」だ。
当時の東北の諸藩は、大阪や江戸に藩の米を「(積みかえなく)直接」届けたいという意向があった。
一体なぜなのか、その謎を詳しく説明するよ。
なんで西廻り航路、東廻り航路を整備したの?
藩のもとには、農民から徴収した年貢米が「蔵米」として保存されている。
藩はこの蔵米を俸禄として武士に分け与えるほか、大阪や江戸の蔵屋敷にもっていって売ることができる。
財政難の藩にとっては、蔵米を売るというのはとても大切なことだったんだ。
しかし、東廻り航路・西廻り航路が整備される前、東北の諸藩は江戸や大阪に直通で蔵米を送ることができなかった。
直通で送れないと何がまずいかって言うと、「輸送費」の問題。
東廻り航路や西廻り航路ができる前は利根川や最上川を下っていかないとダメで、ここで余計なお金が必要だったんだ。
これが江戸・大阪直行になれば、藩にとって費用が安くすんでうれしい限りなわけだ。
だから幕府は東廻り航路・西廻り航路の整備に取り組んだ。
東廻り航路・西廻り航路のルート
東廻り航路
- 出発地・酒田(現在でいう山形、日本海側)
- 到着地・江戸
ルートは、酒田から秋田、青森などに寄港しつつ津軽海峡を越え、岩手や福島を経て千葉県の房総半島をぐるっと一周して東京湾に入るルート。
津軽海峡の通過、犬吠埼の通過が難しく、やや安全性に不安が残る航路だったので西廻り航路ほど発達はしなかった。
西廻り航路
- 出発地・酒田
- 到着地・江戸(大坂を経由)
ルートは、酒田から新潟の佐渡、石川県の能登を通って下関に行き、そこから瀬戸内海を通って大坂にいったん到着。その後紀伊半島をぐるっと回って東京湾に入る、というルート。
西廻りの方は航路を策定した結果非常に距離が長くなっちゃったけど、非常に安全な航路になった。
まとめ
河村瑞賢が東廻り航路・西廻り航路を開拓したことで、東北をはじめとした各藩の蔵米が江戸・大阪に直行するようになった。
ちなみに・・・。
かかる経費も安くなった反面、今まで一般庶民の仕事だった部分の多くが東廻り航路・西廻り航路に吸収されてしまったために庶民たちの働き口が減り、庶民を苦しめる原因にもなってたことをちょっと抑えておこう。