前回は、賤ケ岳の戦いと小牧・長久手の戦いについて見てきたね。
秀吉の天下統一の大きな障害となる強力な大名・柴田勝家を撃破し、徳川家康を下したことで一気に弾みがついた。
今回見ていくのは、四国平定と惣無事令の発令だ。
長宗我部元親を撃破!部下に
長宗我部氏は、もともと土佐一国を支配する程度の戦国大名だったんだけど、本能寺の変なんかで京都あたりがごちゃごちゃしている機に乗じて四国を一気に攻めあがる。
こうして四国のほぼすべてを手中に置く強力な大名になったんだったよね。
しかしここに秀吉の軍勢がやってくる。
長宗我部氏は抵抗する姿勢を見せるも、圧倒的な戦力差にたまらず敗北。
再び土佐一国まで領地を減らされてしまう。
惣無事令の発令
四国平定と同じ年、秀吉は惣無事令という令を出していた。
これは、大名間での私的な領土争いを禁止するもの。
惣無事令の狙いは、大名にこの令を守らせることではなく、「誰かが破った時に、秀吉が攻め入る大義名分を得られるようにするため」。
まず九州地方に対して惣無事令が発令され、次いで関東、東北にも出された。
案の定この惣無事令を守らず戦乱を起こす輩が現れた。
これが九州の島津氏、関東の北条氏だ。
まとめ
秀吉は、四国を平定したのち九州にも手を伸ばそうとする。
その下準備として、大義名分を得るために「惣無事令」を九州に発令したんだ。