前回まで、寛政の改革についてじっくり見てきたね。
寛政の改革では人足寄場や囲米。七分積金というような良い法令も出た一方、寛政異学の禁をはじめとする時代錯誤的な政策も多くあった。
そのため、僅か6年ほどで失脚する羽目になっちゃう。
今回は寛政の改革からはちょっと離れて、ある人物が書した『海国兵談』という本にまつわる話。
林子平ってどんな人?
林子平はその生涯を自分で「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と嘆いたほど不遇の人生を歩んだ。
子平はもともと幕臣の息子として生まれたんだけど、父親が牢人として全国各地を旅するようになってしまった為に、3歳で叔父の家に住むことになる。
姉や兄はどんどん出世していくけれども自分は仙台藩の下級武士のまま。
その後、子平は学問に没頭していくことになる。
長崎や江戸で様々なことを学び、さらに全国を旅してまわった。
この中で生み出されたのが、『海国兵談』だったんだ。
海国兵談の内容とは。
海国兵談で語られたのは、「ロシアの脅威」。
「ロシアは今後北海道から日本に上陸し、そのまま本州のほうに攻め入ってくるのだ!」
「江戸湾から侵入されてしまう危険性がある!」
「というか日本全国の沿岸に砲台設置しないとヤバい!」
みたいな内容が書かれていた。
この本は一時期人々を大いに驚かせた。あまりに突飛な考え方だったからね。
子平は海防政策の重要性を仙台藩に訴えようとしたけれど聞き入れてもらえず。
ならば幕府にと、自分で海国兵談を出版してしまう。
だけどこれが定信の逆鱗に触れる。
幕府の中枢以外の人間が幕府の政治に口を出すのはいけないことであったから、海国兵談は発禁処分になってしまう。
本を出版するための版木も没収され、おまけに禁固刑に処されてしまう。
まとめ
林子平は生涯不遇ではあったけど、海国兵談は完全に無視されていたわけではなかった。
現に、海国兵談が語られ始めたころ老中だった田沼意次は、ロシア対策で蝦夷地探索をやってるしね。
子平は「寛政の三奇人(優秀な人、という意味)」と称されているよ。