前回は桃山美術を代表する画家の一人、海北友松について見て来たね。
友松は「雲龍図襖」に代表されるような、簡素かつダイナミックな独自の水墨画で有名だったよね。
そして今回紹介する長谷川等伯も、友松や狩野永徳などと肩を並べる桃山文化の代表画家の一人だ。
若いころから才能を発揮!
長谷川等伯は、海北友松とは対照的に若いころから絵の才能を存分に発揮していた。
等伯は能登(石川県)の七尾で、下級武士の子として生まれた。
しかし、染物屋を営んでいた長谷川宗清の養子に出される。
養父となった宗清は、室町時代に活躍した超有名水墨画家・雪舟の門人の門人。
この宗清から絵を学んだとされていて、10代後半から絵を描き始めたといわれている。
現存する作品では26歳で初の作品を描いている。
最初の作品からすでに完成度の高い作品だったという。
その後は京都へ赴き、狩野派をかじりつつも「独自の画風」を生み出していった。
狩野派vs長谷川派!?
長谷川等伯を祖として生まれた画派・長谷川派は、当時一番有力だった画派・狩野派とライバル関係にあった。
新興画派の長谷川派が伝統ある狩野派にとって脅威になっていたのは驚きだよね。
それだけ等伯の画風は新鮮でキャッチ―だったんだ。
そんな等伯の代表作品はこれだ。
- 松林図屏風
これは息子の久蔵が26歳の若さで逝ってしまったことを悲しんで描いた絵とされている。
凄く静謐な印象を受ける作品だよね。
まとめ
長谷川等伯を始祖として誕生した長谷川派は、等伯の息子4人によって構成された。
しかし、等伯と久蔵の死後傑出した画家が出ず、のちに衰退することになってしまう。