昭和時代

ハルノートの内容とは?わかりやすく解説。野村吉三郎駐米大使の時。

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日本は1940年9月に援蒋ルートの遮断と南進のためにドイツの支配下に置かれていたフランス政府と交渉して

北部仏印進駐を開始したね。その後これをいい気にした日本はどんどん南進していこうとするんだけど、

アメリカにとってはブチ切れ案件。

アメリカから石油の輸入を頼りきっていた日本としてはアメリカとの決別ってのは死活問題だったわけだ。

実はすぐに喧嘩別れってわけではなくて日本も日米交渉をしていたんだよ。

日本の北部仏印進駐に関しては、『南部仏印進駐は、アメリカとの太平洋戦争「回帰不能点」。』の記事を読んでね。

日米交渉に当たった野村吉三郎駐米大使

日本史の用語集だと1用語くらいだから、ちなみにって事で読んでおいてくれればいいけど

当時、「日米諒解案(=にちべいりょうかいあん)」ってのが作られていたんだ。

この日米諒解案ってのは日米交渉を始めるにあたって日本側の原案の事で、

日中の協定における日本軍撤退、でも満州国は承認してね。日米の経済定型、日本の南方資源の獲得は認めてね!

って感じの内容。日本はとにかく資源が無いから『南進政策』を取っていたじゃん?

フランスやオランダが所有していたインドシナの土地のゴム・ボーキサイト。石油などを取りに行ってたの。

それらをちゃんと認めてよね!!

というのをアメリカに認めさせようとしたのが、日米諒解案だね。

この時に太平洋戦争を回避するために、交渉にあたったのが野村吉三郎駐米大使。

海軍出身の人物なんだけどローズヴェルトと親交があったから駐米大使になって日米交渉にあたったわけだ。

のちに来栖三郎も野村吉三郎を助けるためにアメリカに派遣されているね。

 

しかし、1941年10月上旬までに日米交渉がまとまって日本の要求が通らない場合は開戦するぜ!

という帝国国策遂行要領が出されてしまったのだ、時は第三次近衛内閣の時。

 

ハルノートの内容をわかりやすく

この時、第三次近衛内閣は開戦をためらっていたんだけど

東条英機が猛反発してさ。近衛内閣は総辞職。

1941年11月26日にはアメリカも日本にブチ切れ中だよ。これ以上日本が南進していくようなら戦争するしかなくね?

っていう状況。こんな怒っているアメリカに日本の南進政策をみとめさせようとしていたのが逆に凄いよね。

 

そこで野村吉三郎が交渉にあたっていたアメリカの国務長官ハルがアメリカ側の最終的な提案を出したのが

ハルノートってわけさ。

・日本軍は中国・仏印から撤退しましょうね
・三国同盟は無かったことにしましょうね
・国民政府以外は認めちゃだめよ

といった内容。つまり日本がやっていることは全部だめだよって事だね(笑)

ここまで意見が食い違うってのも面白いよねー

だって満州事変以降に日本がやっていることを全面否定だもん。もう交渉の余地なんかないぜ!って感じ。

 

日本史の教科書だけ読んでいるとイメージが湧かないと思うけど、日本以外の国ももちろん中国に攻め入ってたわけだから、

欧米のやつらは散々アジアに攻め入っているくせに、日本が満州を作ろうとしたら反対するアメリカおかしくね?

という気運が日本にはあったわけだね。

 

こういった流れで日本はハル=ノートをアメリカからの最後通牒と受け取って開戦に進んでいくわけだ。

ABCD包囲陣とハルノートで日本が開戦に踏み切った流れに関しては、『ABCD包囲網とハル・ノートで、太平洋戦争突入へ。』の記事を読んでね。

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