大正デモクラシーが影響するなか、はじめての本格的な政党内閣が誕生するんだ。
つまり貴族院議員による政党内閣(大隈重信が初めてだね)ではなく、国民が選んだ衆議院議員による政党内閣が誕生するんだ。
これまでは爵位をもった貴族院議員しか内閣総理大臣になったことがなかったんだけど、
大正デモクラシーになってやっと国民が選んだ衆議院議員が内閣総理大臣になったんだ!
こうなるまでの経緯を見ていこう!!
大正デモクラシーに関して詳しく知りたい人は、『大正デモクラシーとは?わかりやすく 民本主義を唱えた人』の記事を読んでね。
まず本格的な政党内閣が誕生するきっかけは
年号は1918年ね。
シベリア出兵が影響して米の価格があがる!と考えた商人が米を売り渋り。
そのせいでお米の価格がどんどん上がっていったよ。
そのせいでお米の安売りを要求する暴動が起こったんだ。
はじめは富山県の漁村に住む主婦たちの蜂起だったんだけど、それが全国に広がったよ。
そのせいで寺内(てらうち)内閣は総辞職。
でも現内閣が総辞職したところで、国民の統制が回復するわけではない。
そこで大正デモクラシーの雰囲気も影響したのか、国民が選んだ議員を内閣総理大臣にしよう!という考えがでてきたんだ。
そして内閣総理大臣になったのは
原敬(はらたかし)!!!
年号は1918年ね。
貴族院議員ではなく、衆議院議員だったから(つまり華族の爵位をもっていないから)
平民宰相(へいみんさいしょう)
と呼ばれたよ。
また初めて国民に選ばれた議員がある政党から内閣総理大臣になったから、初めての本格的な
政党内閣(せいとうないかく)
と呼ばれているよ。
初めて政党内閣を作った人は大隈重信だけど、初めて本格的な政党内閣を作った人は原敬ね!
原(はら)内閣
がやったことは二つ確認しておこう。
まずは
積極政策(せっきょくせいさく)!!
これは積極的な財政支出によって国内の産業や教育を発展させよう!というもの。
もちろん財政支出をするから、お金がだれかの手に渡るわけで、お金がもらえる地方の人たちの支持が強くなるのが狙いなわけだ。
とはいっても、国大切な公共施設を作ることはとても重要だし、不景気のときに国が借金をしてでも財政支出することは景気に良い影響を及ぼすから、
財政支出だからいけないということはまったくないけどね。
次にやったのが
小選挙区制(しょうせんきょくせい)!!
いままでは一つの選挙区に数人当選することができたんだけど、小選挙区にすることで一つの選挙区に一人しか当選しなくなったんだ。
なんでそんなことをしたかというと、一番支持率の高い政党が勝ちやすくなるから。
いままでは支持率がA党20%、B党が15%の場合でもB党が議席を獲得する可能性があったんだけど、小選挙区にすることで、
20%の党しか議席を獲得できないようにしたんだ。
こうやって地盤を着実に固めていた原内閣だけど、
原敬は1921年に東京駅で暗殺されてしまうんだ。
理由は男子普通選挙を求める運動に対して原敬が冷淡な態度をとったから。
税金を払わないひとには選挙に参加する資格がないと国民に示してしまったんだ。
そのことに憤慨した青年が原敬を暗殺したんだね。
原敬が暗殺された理由は政治の流れを理解するのにも重要な点だよ。原敬の暗殺理由に関しては、『原敬が暗殺された場所は東京駅。犯人の理由と初の政党内閣の悲しき結果。』の記事を読んでね。