人物シリーズ。
第一次世界大戦で日本は空前の好景気も迎えるも結局、本当に儲かっていたの海運業と造船業。
庶民は給料はもちろん増えたけども、物価がどんどん上がって決して生活が楽になったとは言えなかったね。
そんな中、米の価格が上がり続けて米騒動が起きたんだったね。
そして吉野作造の民本主義なんかもあって、世は大正デモクラシー。今まで内閣総理大臣は軍部出身が多かったから
平民から首相になった原敬は『平民宰相』と呼ばれて期待されていたんだ。
ただ、期待が過度なだけに、うまくいかなった事を理由に暗殺されてしまったんだね。
今日はそんな悲しき原敬について見てみよう。
原敬がやったこと
原敬は陸軍・海軍・外務大臣以外はすべて『立憲政友会』から選んで組閣した最初の本格的政党内閣だよ。
軍部大臣現役武官制というルールがあるし、外務大臣みたいな海外に精通していないと務まらない仕事は政治家からは選んでいないね。
この頃、元老たちも、もはや官僚から総理大臣選んでも大正デモクラシーの真っただ中だし、世論の指示を得ることはできないな~
として、衆議院の第一党である立憲政友会総裁の原敬を推薦したのさ。
原敬が総理大臣になったことで国民はめちゃくちゃウェルカム。
しかも原敬内閣は『積極政策』を取ったので、国民はかなり期待したんだよね。
積極政策とは文字通り積極的な財政支出をする事で、お金を使って各種制度を充実させて地方に利益をもたらし政権基盤を拡大していこうって政策ね。
具体的には教育施設を増やしたり、交通整備を良くしたりだね。
即効性はないし、時間はかかる政策だけど、とても重要な政策だよね。
ここからは難関大学受験者はちゃんと覚えておこう!
原敬内閣は選挙法を改正して、大選挙区を小選挙区に改め、それまでの直接国税10円以上から、直接国税3円以上に引き下げたんだ。
1890年に最初に行われた選挙は小選挙区だったんだけど、1900年の改正で大選挙になり、原敬は1919年に再び小選挙区制に戻したの。
1つの選挙区が小さくなるから、地元で人気のある力のある人が当選しやくなるよね。それで翌年の1920年に立憲政友会は選挙で圧勝。
この選挙の仕組みはしっかり覚えておいたほうがいいね。原敬内閣で実施されたってのポイントさ。
意外にも思えるかもしれないけど、原敬は普通選挙には反対したんだよ。
さすがに時期尚早ってね。
さっきも少し話したけど、原敬内閣は積極政策で教育や交通に力を入れていたから、鉄道引くことに関して我田引水ならぬ、『我田引鉄』といわれたよ。
原敬の暗殺の理由
これだけ期待された原敬内閣だけれども、1920年に恐慌が起きて行き詰ってしまったんだ。
・政党内での汚職
・普通選挙を求める知識人たちの声
大きく分けるとこの2つかな。
野党の犬養毅や尾崎行雄らが、普通選挙を求めて政府に詰め寄るもそれに対しても結構、冷淡に対応しちゃってさ。
国民のイメージを損ねることに。
そこで、原敬内閣に不満をもった人に東京駅で暗殺されてしまったんだ。
1921年11月の出来事だね。