白村江(はくそんこう/はくすきのえ)の戦いは、日本史的にとっても重要な戦いだった。
「日本(厳密に言えばこの頃はまだ倭国)が外国と戦争を行った数少ない戦争」って意味でももちろん重要なんだけど、
何よりこの戦いの影響で“新しい日本”が誕生することになるんだ。
一体どういうことなのか、詳しく見ていこう。
白村江の戦い前の朝鮮
白村江の戦いが起きた発端は、朝鮮半島をめぐる勢力争いだった。
朝鮮半島には当時、「新羅(しんら)」「百済(くだら)」「高句麗(こうくり)」という3つの国があった。この時代を朝鮮の三国時代とかいうんだけどね。
で、白村江の戦いが起きる前のそれぞれの国のパワーバランスはだいたい
高句麗>新羅≧百済
という感じ。
高句麗は領土的にすごくデカい国で、昔から朝鮮半島じゃ一番強い国だった。
大国である中国(隋)から何度攻撃を受けても毎度毎度追い払えるくらいの強さをもってた。
次いで新羅だけど、この国は三国時代でメキメキ頭角を現してきた国で、かなりの強さを持っていた。
高句麗も次第に新羅のことを脅威だと認識し始める。
で、朝鮮半島でビリなのは百済。
昔は高句麗と戦ったりしたほど強かったんだけど、新羅が出てきてからは大して強くなくなっていた。
さて。
百済は隣接する新羅が目の上のタンコブだったし、高句麗も高句麗で新羅が力をつけてきたことが少々怖いと思っていた。
だから「いっしょに新羅を潰しちゃおう!」という考えで一致し、新羅を滅ぼすべく戦争を仕掛ける。
新羅はさすがに百済と高句麗が手を組んで攻めてきたら不利だな、と考えたので唐との協力関係を築くことにした。
唐も、「高句麗は毎度毎度歯向かってくるし、百済もその高句麗と手を組んでて腹立つな・・・。」と考えていたので利害関係が一致。
新羅と唐の連合軍を作ることになった。
で、唐と新羅の連合軍はまず手始めに百済を倒そうということに。
結果どうなったかというと・・・。百済の完敗。
ボコボコにされ、百済という国そのものが滅ぼされてしまった。
倭国参戦!白村江の戦い
百済は唐・新羅連合軍に敗れ、国が滅びてしまった。
しかし、百済の生き残りもこのままじゃ終われない。
なんとしても自分の国を復活させようと、ある国に救援を求めた。
その国こそ、倭国(日本)だったわけだ。
当時倭国は、百済とかなり良い関係を結んでいた。百済に官僚が出向いていたほどにね。
だから百済が倭国に助けを求めてくるのはまあ当然の流れだね。
でも倭国は百済を助けるべきかどうかで物凄く悩むことになる。
なぜかというと、倭国は百済の敵である唐とも良い関係だったから。
どっちかを味方にすればどっちかを敵に回してしまうことになる、板挟み状態になってしまったんだ。
さて、倭国はどっちの味方に付いたのかというと・・・・。
百済だった。
倭国は百済の復活を助けるべく軍を送ることになる。
その倭国と百済の連合軍が唐・新羅連合軍と戦ったのが「白村江の戦い(663)」と呼ばれている。
白村江の戦いとその後
白村江の戦いの結末は非常にあっけないものだった。
倭国・百済連合軍は惨敗。663年のことだった。
ほんと一方的にボコボコにされて負けてしまったんだ。
結局百済は復活させられず、百済と手を組んでいた高句麗も唐に滅ぼされ、朝鮮の覇権は新羅が握っていくことになる。
一方倭国でも、この白村江の戦いでの惨敗をめちゃくちゃ重く受け止めていた。
唐や新羅に全く歯が立たなかったということは、見方を変えれば“もし唐に倭国を攻められたら勝てない”ということでもあるよね。
これを受けて倭国側は、唐にも対抗できるような新しい国家を急いで作らなきゃいけなくなった。
白村江の戦いが起きたのは663年だから、当時大化の改新が始まっていたころなんだけど、この戦いを受けて改新が急ピッチで進められるようになった。
そして701年に大宝律令やその他もろもろの大改革が行われて「日本」という新しい国が誕生することになる。そして710年から奈良時代へ突入するって流れになる。
白村江の戦いで「外国に攻められたら日本ヤバいんじゃね?」という危機感を持ったことで、日本の歴史は大きく動いたといっても過言じゃない。
まさに歴史のターニングポイントとなった出来事なんだよ。