天皇からの朝命を受けて、長州藩は外国船に大砲をぶっぱなしたよね。
まぁリベンジされるわけだけども。四国艦隊アベンジャーンズにね!長州藩が攘夷運動しまくってんだけど、これに対して気持ちよく思っていないグループもあるわけね。薩摩藩とか会津藩とか。
こいつらが、起こしたが八月十八日の政変だね。なぜこれだけが日付が命名されているかはよくわかんないけど、大事なことだから要チェックやで!
八月十八日の政変とは?
長州藩を京都から追い出す!!
これが八月十八日の政変だね。長州は攘夷ばっかりだから、会津藩と薩摩藩は面白くなったのね。
以下の図を頭に入れておくと理解が深まるよ。
公武合体 ← 会津・薩摩藩
攘夷派 ← 長州藩・三条実美
孝明天皇もバリバリの攘夷派だったんだけども、さすがに長州のムーブメントが大きくなりすぎてちょっと頭を悩ませていたんだよね。
「さすがに外国人嫌いだけど、長州張り切り過ぎでしょ・・・」
って感じだったわけ。開国派と攘夷派の考えが最高潮にぶつかりあっているのが、この年ね。
長州藩は京都の宮門警部を任されていたんだけど、この八月十八日の政変で解任されちゃったわけね。
長州藩とズブズブの関係だった三条実美も追放されて長州藩に逃げる形になるよ。
三条実美の他にも公卿7人が長州藩士と一緒に長州に逃げたのね。これを七卿落ち(しちきょうおち)って言うよ。
三条実美は王政復古の後に政界に復活する人物だから、また出てくるって思っておいて。
大和行幸について
公卿の三条実美が、孝明天皇を大和で攘夷祈願、伊勢で参拝してもらって、
「攘夷成功させようぞ!!させようぞ!!」
とお祈りすることだね。8月13日に神武天皇の墓を参拝すること。攘夷成功のためにわざわざ天皇がお祈りするなんて、本当に日本は儀式や形式を大事にする国だよね。
孝明天皇が直々に参拝してお祈りしちゃうのが問題なの。
親征(しんせい)って言ってね、天皇自らが攘夷のための軍事行動をするってことは、江戸幕府を無視するってことなの。だって、諸大名を引き連れて軍事指揮権を発動するのは、征夷大将軍のやることだからさ。
だから、薩摩・会津藩はなんとしてでも大和行幸を阻止するために、八月十八日の政変を起こしたってわけさ!!
またまた、ちょっと予告だけど薩摩藩と長州藩が同盟組むなんて考えられないような状況でしょ?
薩摩藩・会津藩は公武合体派で長州藩を追い出したわけだからさ。
でもね、四国艦隊下関砲撃事件を思い出して欲しいね。あの下関戦争で外国の強さを知った長州藩はさ、
『外国強いね。攘夷無理かもね。開国した方がよさそうだね』
って考えが芽生えていくんだよね。薩摩もイギリスと薩英戦争をして、開国の重要性を認識したからさ。開国の機運が高まっていく流れが掴めてきたんじゃないかな。