以前、鎌倉幕府初期の重要人物として
- 和田義盛
- 大江広元
- 三善康信
という三人を紹介したの、覚えてるかな?
それぞれ侍所・公文所(政所)・問注所の長官だったよね。
この三人は、頼朝の死後も重要な役割を果たしていくんだ。
その最たるものの一つが、今日紹介する「十三人の合議制」。
詳しく見ていこう。
頼朝の長男・頼家
頼朝が急死すると、嫡男である頼家が継いで将軍となった。まあ、お約束の流れだね。
しかし頼朝っていう強力なリーダーが死んでしまってからというもの、幕府内部で権力闘争が始まってしまう。
頼家もその権力争いに巻き込まれていく。
頼家が将軍を継いでからというもの、頼家の独裁的な政治が行われ始め、御家人たちから不満や反感が高まっていった(と言われている)。
そこで、頼家の母にあたる北条政子側では「将軍に強大な権力を与えておくのは良くない。権力を抑えなきゃ」という話が出てきた。
そうして生まれたのが、「十三人の合議制」という仕組みだ。
十三人の合議制は「将軍の権力を奪うため」
北条氏を中心に作り出された十三人の合議制というシステム。
これは、有力な御家人を集めて政策などを話し合い、決定するというもの。言葉の通りだね。
言い換えれば、“将軍が独断で政策を決定することができない”ということだ。つまり将軍の持っていた実権は合議制によって実質奪われてしまったんだ。将軍による専制政治を御家人側が恐れた結果、こういう仕組みが作られたってわけだね。
で、この十三人にどんな御家人が入っているかというと・・・。
- 和田義盛
- 大江広元
- 三善康信
- 北条時政
- 北条義時
- 梶原景時(かじわらかげとき)
- 比企能員(ひきよしかず)
- 安達盛長(あだちもりなが)
- 二階堂行政(にかいどうゆきまさ)
- 足立遠元(あだちとおもと)
- 中原親能(なかはらのちかよし)
- 三浦義澄(みうらよしずみ)
- 八田知家(はつたともいえ)
とくに、1~7あたりの人はこの後の乱などにかかわってくる人だから注目しておこう。
和田・大江・三善の三人や、執権を世襲している北条家などが入っているよね。
今後しばらく鎌倉幕府は、この十三人の合議制に入っている御家人たちや将軍入り乱れての、ドロドロ権力闘争が続いていく。
この話は次回!。
※ちなみに・・・。
十三人の合議制は、毎回十三人あつまって会議していたわけではないらしい。
数人が話し合って意見をまとめ、政策が大体決定したら頼家に「この政策やります?」と最終判断を仰ぐ形だったらしい(諸説あり)。