前九年の役で、一気にその地位を上げた源氏と清原氏。
しかし、急に大きな権力を得たり裕福になったりすると、どうしてか綻びが出てきちゃうんだよね~。
今も昔も変わらないね。
清原氏も御多分にもれず内部分裂が発生してしまう。
で、これがただの内輪揉めならまだしも、そこに食いついてきた源氏の影響もあって非常に厄介なことになる。
今回は、後三年の役(1083~1087)について詳しく見ていくよ。
清原氏、内部分裂
前九年の役で朝廷側について戦った清原氏。
東北地方を牛耳っていた安倍氏は消滅、その戦果が功績として認められ東北地方の覇者となった。
「前九年の役」の時の清原氏のボスは清原武則って人だったんだけど、この後数年の間にたくさん子孫が生まれた。
で、今回の「後三年の役」でキーとなるのは、武則から見た孫にあたる、清原真衡という人物。
真衡はいわゆる“政略結婚”を巧みに使って、当時武家として大きな力を持っていた源氏や平氏とコネを作る作戦をとっていた。
自分の養子に平氏系列の子を迎え、その子に源氏系列の女性を嫁がせる・・・といった具合だ。
この政略結婚で真衡は何がしたかったのかというと、
- 清原一族の棟梁(ボス)として唯一無二の権力を手に入れたかった
- 自分以外の清原一族は自分より格下にしたかった
というわけ。
これは、当たり前だけど清原氏のほかの面々から文句でるよね。
同じ清原なのに、なんで真衡の配下にならなきゃいけないんだって。
些細なことから家族げんかへ
そんな家族内の権力闘争による不満が、ある時爆発してしまった。
きっかけはホントに些細なものだった。
真衡の養子が結婚するという話を聞いて、真衡の叔父にあたる吉彦秀武がお祝いにやってきた。
・・・がしかし、真衡は囲碁で遊ぶのに夢中で秀武をガン無視。何時間も待ちぼうけを食らわせた。
秀武は、「わざわざお祝いの品まで持って祝いに来たのに、この仕打ちはなんだ!」とブチ切れる。まあ、当然だわな・・・。
秀武は持ってきた祝いの品をぶん投げて帰っちゃったんだけど、その話を聞いた真衡は逆ギレして秀武を殺そうと軍を送る。
どんだけ自己中なのよ。
秀武は真衡が攻めてくると知ると、「もういいわ。この際ふてぶてしい真衡を返り討ちにしてやるわ」と心に決め迎撃準備を始めた。
それと同時に、真衡は清原家衡・清原清衡にも声をかける。
この2人も清原の血を引いてるんだけど、真衡の直系ではないために不当な扱いを受けてきた人たち。
2人とも真衡を良く思ってなかったので、秀武の誘いに乗って真衡と対立することにした。
源義家の参戦とさらなる分裂
しかしこっからがゴチャゴチャしてくるんだよね・・・。
ちょうどこの時期、陸奥の国司として頼義の息子・源義家が東北地方にやってきた。
前九年の役で名をあげた源氏一族が東北に来たのをチャンスと思った真衡は、義家を接待して真衡側についてもらうことに成功。
結果、家衡・清衡の軍は真衡・義家軍に敗北してしまい、秀武ともども降伏する。
・・・んだけど、その最中で真衡がまさかの急死。
義家は別に家衡と清衡を殺したいわけでもないので、「真衡もってた土地は家衡と清衡で分けな」と半分半分に分け与えた。
ここで今度は家衡が清衡にケンカをふっかける。
家衡は「清衡と半分半分なんて冗談じゃねぇ!俺の取り分もっと寄越せ!」と清衡側を攻撃。
何とか逃げ出した清衡は義家に助けを求め、義家・清衡は家衡の軍に反撃を開始する。
その後戦闘がいくつかあったんだけど、籠城作戦をとっていた家衡に対して、義家・清衡が兵糧攻めをしたところ、あえなく敗北。
家衡は死に、全ての土地は清衡の物となった。
(秀武はなぜかこの後どの史料にも登場せず突然消える。なぜなのか・・・)
その後
後三年の役も、後の時代を考えるうえで凄く重要な変化をもたらした。
なんと言っても清衡のその後が重要だ。
清衡の家系をたどっていくと、実は藤原氏の一族。
清衡は自分が東北の覇者となるにあたって、“清原”の姓は使わず父親の姓である“藤原”に戻した。
この結果、「奥州藤原氏」という勢力がしばしの間、東北で大きな力を持つようになったんだ。(100年くらい)
後に源頼朝によって滅ぼされることになるけどね。
一方の源義家も後三年の役の後いろいろあった。
義家は「東北のゴタゴタ治めてきたよ~!頑張ったからご褒美ちょうだい」と朝廷にねだったものの、
「いやそれお前が勝手にやっただけだろ!というかお前戦闘中に税納めてないだろ、まずはそれをしっかり払ってからにしろ」
と指摘を受けて、なにももらえなかった。
おまけに、戦闘に参加した兵士に報酬を払わなきゃいけないんで、仕方なく自腹で払った。
これだけ見ると義家の旨味なしなんだけど、この行動が実は後々効いてくる。
義家の功績が朝廷に認められなかったことや、兵士たちへの報酬を自腹切ってまで払ってくれたことに、兵士たちは恩義を感じるようになった。
結果的にこれは源氏への信頼を高めることにつながり、鎌倉時代へ向けてその勢力が拡大していく一因にもなる。
ケガの功名というか、棚からぼたもちというか・・。