前回は、後醍醐天皇が討幕に失敗してしまった正中の変について説明したね。
まだ読んでいないという人がいたら、ここを見てみてね。
後醍醐天皇の討幕への思いは固かったから、失敗してもめげずにもう1度討幕計画を実施するんだ。
それが、「元弘の変」。
今回は後醍醐天皇の2回目の討幕計画について見ていこう。
元弘の変とは?
元弘の変は、正中の変から7年後の1331年に起こった事件なんだ。
この時の中心人物は、正中の変の時とあまり変わらないんだけど、
日野資朝は島流しになっているから、後醍醐天皇と日野俊基を中心に計画されたんだ。
まず、天皇は、護良親王と宗良親王を延暦寺の座主に任命して、
僧兵の力を集めようとしたんだ。
座主とは、一般的に天台宗のトップのことを指すよ。
そして日野俊基は、山伏の姿をして、畿内の武士を説いて回ったんだ。
しかし、この計画も、計画を実行する前にばれてしまうんだ。
今回は、武力での討幕に反対している近臣の吉田定房の密告によって、ばれてしまう。
さすがに2回目だから、天皇に対しても甘くない。
幕府は六波羅探題に対して、後醍醐天皇を捕まえることを命じたんだ。
天皇はすぐにつかまろうとするわけではなく、
計画が密告されたことを知ると、近臣たちと京都を脱出し、
山城の笠置山へ向かった。
そして、笠置山で畿内の武士たちを募った。
しかし、集まったのは楠木正成だけだったんだ。
そして天皇は捕らえられ、楠木正成もどこかへ消えてしまったんだ。
幕府は、後醍醐天皇を島流しとし、隠岐島へ流した。
天皇に加え、数名の近臣も同様に島流しとなった。
また、日野俊基は首をはねられ、
さらに、正中の変で島流しにされていた日野資朝も同様に首をはねられたんだ。
これで、元弘の変はおしまいというわけだ。
結局、後醍醐天皇の討幕計画は2回とも失敗に終わってしまったということになるね。
さらに、今回は天皇も島流しになりいなくなってしまったため、
幕府は新しい天皇として、持明院統の光厳天皇を新しい天皇として擁立したんだ。
後醍醐天皇の計画は失敗に終わったけれども、
この2度の事件によって、幕府に不満を持っていた畿内の悪党の動きが、ここから活発になっていくんだ。
最終的に鎌倉幕府は滅亡へと向かったから、後醍醐天皇の計画は討幕に影響を少なからず与えたんだ。
元弘の変の年号の語呂合わせを紹介!
元弘の変の年号の語呂合わせを紹介するよ。
父さん災難(1331)元弘の変
後醍醐天皇は2度も討幕計画に失敗して災難だったよね。
正中の変と元弘の変の区別はしっかりとしておこう!
内容が分かれば、迷うことはないよね。