藤原四子(四兄弟)と長屋王の変をわかりやすく。

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前回の記事では、藤原不比等について見てきたね。

 

徐々に朝廷内で権力を高めていき、天皇家と外戚関係を作ったことでその権力が非常に大きなものになったんだったよね。

で、不比等には息子が4人いたんだけど・・・この四人が結構重要なんだ。

 

藤原四子、藤原四兄弟なんて言われ方をする。

詳しく見ていこう。

藤原四子とは?

 

藤原四子は冒頭でも言った通り、藤原不比等の息子に当たる4兄弟のこと。

 

名前は、

「藤原武智麻呂(むちまろ)」(680-737)

「藤原房前(ふささき)」(681-737)

「藤原宇合(うまかい)」(694-737)

「藤原麻呂(まろ)」(695-737)

 

読み方が激ムズなやつが2人ほど・・・。

気を付けてね(笑)

 

この4人はこの後話す「長屋王の変」でももちろん重要なんだけど、この4人はそれぞれ家庭を持って、「藤原四家」と呼ばれる4つの名門家系を形成したことも重要。

 

武智麻呂→藤原南家の始祖

房前  →藤原北家の始祖

宇合  →藤原式家の始祖

麻呂  →藤原京家の始祖

 

となっている。

この4つの家系は、奈良時代・平安時代でちょくちょく重要人物を排出するから要チェックだ。

 

 

さて。

この四人は不比等の息子だけにもちろん権力を持ってたんだけど、この四人にとってはまさに目の上のタンコブ的存在が一人いたんだ。

 

由緒正しい血統・長屋王

その目の上のタンコブってのが、長屋王という人物。

 

長屋王のお父さんは、壬申の乱で勝利した天武天皇の子である高市皇子で、お母さんは天智天皇の娘である御名部皇女(みなべのひめみこ)というわけで、長屋王はめちゃくちゃ血筋がよかった。

 

もちろん朝廷では特別待遇で、高位の官僚として仕えていた。

時間を経るごとに冠位をあげていき、718年には当時右大臣だった不比等一つ下の位である、大納言にまで出世。

 

すると2年後の720年に不比等が亡くなった。

そのため繰り上げで長屋王が右大臣に昇格。

 

事実上のトップに上り詰めたわけだ。

しかもこのころまだ藤原四子は幼かったんで政治の表舞台には出てこれなかった。

 

ここからしばらく長屋王主導の政治が行われることになる。

 

藤原四子とのイザコザ

 

しかし藤原四子が成長して政治の世界に入ってくると、次第に藤原四子と長屋王は対立し始める。

 

そもそも朝廷の風潮的に、「皇族でもない藤原氏に政治の主導を握らせるのはいかがなものか。血筋のいい長屋王系統の方がいいんじゃないか?」という感じだったのもあるんだけどね。

 

対立が決定的となったのは辛巳事件(しんしじけん)。

詳細は省くけどこの事件で藤原四子のメンツが長屋王によって潰されることとなり、藤原四子は長屋王を追い詰めてやろうと画策する。

 

で、起きたのが長屋王の変という事件。

藤原四子が「長屋王が謀反を企てているっぽい!」と朝廷に密告したことで天皇の怒りを買ってしまい、家を兵士たちに包囲される事態に。

(長屋王は本当は謀反なんて考えてなくて、ハメられた可能性が大。

 

絶望的な状況を悟った長屋王は、家族もろとも自殺の道を選んでしまう・・・。

結果、長屋王はいなくなり、藤原氏が大きく勢力を伸ばす結果となった。

 

バチがあたった?

 

藤原四子にとっては邪魔者が消えたことになるから、これで藤原氏は安泰・・・かと思いきや。

 

政権を握ってから数年後の737年、この4兄弟が次々と流行り病(天然痘)にかかってバッタバッタと倒れてしまう。

皆助からず、その年のうちに全員死んでしまった。

 

一瞬で藤原四子が死んでしまったことで突如四子による政治は終了して、しばらく藤原氏は政治の表舞台から姿を消すことになる。

 

いや~、殺された長屋王の呪いなのか、天罰なのか・・・。

 

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