前回は、田沼意次が行った外交政策の一つ、「海舶互市新例の緩和」を見てきたね。
金銀の流出を抑えつつ、貿易額を増大させることに成功した。
海舶互市新例の緩和は、「鎖国緩和」と同じ意味を持つ、とも言ったね。
ここから分かるように意次は、鎖国政策を転換しようと考えていたんだ。
何なら鎖国解禁まで考えていたって噂。
そんな意次の行った外交政策がもう一つある。
それが、「蝦夷地」の開発だ。
ロシアが日本に攻め入ってくる可能性があった?
田沼意次の時代、ある人物が、「赤蝦夷風説考」という論文を提出した。
その内容とは、「ロシアが北海道のほうから降りてきて、日本を侵略しに来るかもしれない!」というもの。
この論文を提出した人物が、工藤平助という仙台藩のお医者さん。
意次はこの論文が提出されるとさっそく平助を読んで、話を聞いた。
で、平助の意見をもっともだと思った意次は、ロシアが南下してくるのを防ぐため蝦夷地(北海道)を開拓しよう、と考えた。
意次はロシアとの貿易まで考えていた!?
驚きなのはここから。
実は意次、この論文が提出される前から蝦夷地には興味を持っていた。
ここを開拓して農民を移住させれば年貢増収につながるし、ロシアと近いからうまくいけばロシアと貿易もできるんじゃないか、と考えていたんだ。
当時鎖国していたとは考えられないような思考だね。
工藤平助の「赤蝦夷風説考」が出されてから2年後、意次は蝦夷の調査隊を派遣する。
しかし、蝦夷地開拓は実現しなかった。
志半ばにして、田沼意次は策略にはめられ失脚してしまったんだ。
まとめ
鎖国の解禁すら視野に入れてしまう意次の思考は、明治維新後の政府の考え方に近いものがあった。
意次は、幕府の中でしっかり時代の流れを見据えていた賢者だったのかもしれないね。