延久の荘園整理令をわかりやすく!荘園公領制との関係も。

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平安時代は末期に向かうにつれて、貴族や寺社がたくさんの荘園を私有するようになった。

おまけに不輸の権、不入の権まで持った荘園が出てきたりもして、徴税がどんどん難しくなっていった。

 

これまで公領として徴税ができていた土地が、荘園となって私有地となっていく・・・。

この動きがずっと続けば、いつかは国の持つ土地がなくなってしまう。

 

この状況を打破すべく、一人の天皇が立ちあがった。

今回は、その天皇の主導で行われた大規模な「荘園整理」について見ていこう。

荘園整理令

 

実は「荘園の増加は国にとって悪影響だ!」ということはかなり前(醍醐天皇の“延喜の治”あたり)から叫ばれていて、対策もいくつか打ち出されていたんだ。

 

例えば、醍醐天皇による延喜の荘園整理令。

この令では、「民衆は、勝手に貴族や寺社に土地を寄進するな!」とか「申請なしで荘園勝手に作るな!」とか、違法性のある荘園の権利を停止していった。

 

まあでも、荘園領主は大体朝廷トップクラスの官僚だったりもするから、あんまり効果なかったんだよね・・・。(摂関家の藤原氏とか)

取り締まる側が荘園領主なんだから、そりゃいくらでも不正やら口利きやらできる。

 

例えば、任期を終えて都に帰ってくる国司に良いポストを与えてやる代わりに、税のかからない荘園を認めさせたりね。

 

そんなこんなで結局荘園整理令ってのは劇的な効果を出せなかったんだ。

ある天皇の代までは。

 

後三条天皇の「延久えんきゅうの荘園整理令」

 

その「ある天皇」ってのが、タイトルにもある通り後三条天皇だ。

後三条天皇が皇位にあった11世紀後半あたりでは、いよいよ荘園が公領の面積よりも多くなってきたころだった。

 

しかもひどいのは、このころ関白に就任していた藤原頼通ふじわらのよりみちが、

あちこちで「ここは俺の荘園だから」と口で言うだけで自分の荘園にするという横暴っぷりを発揮していたこと。

 

明らかに違法な荘園が、頼通の横暴によって増加してしまったんだ。

 

このままでは公領はさらに少なくなり、朝廷の財政が立ち行かなくなってしまう。

危惧した後三条天皇は、思い切って抜本的な荘園整理を実施することにした。

 

(実は後三条天皇、藤原氏と外戚関係を持たないイレギュラーな存在。後三条天皇の前の天皇・後冷泉天皇が子に恵まれなかったので、後三条天皇が即位することになった。

藤原氏と外戚関係がないがゆえに、藤原氏側にもデメリットがあるような大胆な政策を打ち出すことができる状況にあった。)

 

これまでの荘園整理令がなぜ効果がなかったのかというと、やっぱり

「取り締まる側の有力官僚が、荘園領主でもある」という状況が問題だったからなんだ。

 

これまで荘園を取り締まっていたのは国司だけど、国司は上司である有力官僚たちとズブズブで不正ばっかり。

 

後三条天皇は、国司たちを使わずに荘園整理ができないか考えた。

 

そこで考えられたのは、まあ当たり前っちゃあ当たり前なんだけど、

摂関家・国司ではない第三者機関を作って、そこに違法荘園の調査をさせるという方法だ。

 

記録所の設置

 

その第三者機関として設置されたのが、この記録所と呼ばれるもの。

正式名称は記録荘園券契所きろくしょうえんけんけいじょという。

 

記録所の職員は藤原氏に対して批判的な考えを持っている人や、優秀な学者を選んで配置した。

学者の大江匡房おおえのまさふさとかが有名。

 

記録所では、「これは合法な荘園ですよ」ということを証明する書類の無い荘園や、書類に不備がある荘園などをバンバン摘発&没収していった。

藤原氏を快く思っていない連中が摘発を行っていたんで、そりゃもう容赦なく藤原氏系の荘園も摘発された。

 

結果藤原氏の荘園をはじめ、かなりの荘園が朝廷に没収されることとなり、藤原氏としても痛手となっていく。

 

荘園公領制

後三条天皇による延久の荘園整理令は、これまでとは比べ物にならないほど効果があった。

 

これまでは「違法荘園をなくす!」と意気込んでも、結局べらぼうに権力の強い藤原氏やその言いなりの国司たちによって、不正が行われ続けていた。

それが延久の荘園整理令では摂関家である藤原氏の荘園にもガンガン干渉して、違法な荘園を取り上げることに成功した。

 

 

この荘園整理令によって、国の体質も大きく変化することになったんだ。

変化点としては、

 

  1. 取り上げた土地は、天皇が所有する荘園のような形で没収された(天皇領荘園)
  2. 違法荘園がなくなったことで全国の土地は「国衙領(公領)」と「合法荘園(私領)」の二種類に、ハッキリと区別された

 

天皇がもはや荘園を持つ時代に入っていったんだね。

この“国の土地が「公領」と「荘園」に明確に区別された仕組み”を、荘園公領制と呼ぶ。

 

土地の所有権がハッキリ分かれた、ということが一番重要だ。

とにかく荘園公領制=土地の所有権が明確になった、ということだけでも覚えておいて。

 

この荘園公領制は、鎌倉時代までず~っと続くしくみでもあるよ。

 

さて。

次回は、荘園公領制によって公領と荘園に分かれたうち、

 

  • 「公領」の方はその後どのように変化していったのか

 

を詳しく見ていくよ。

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