延喜・天暦の治を簡単にわかりやすく!時の天皇についても。

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今回は、尚泰しょうたいの変で脱・藤原を考えていた菅原道真が消されてからのお話。

 

前回の記事で書いたように、尚泰の変が起きた時の天皇は醍醐だいご天皇

実は、この醍醐天皇の治世と、そこから一つ飛ばして村上天皇の治世は後に延喜えんぎの治・天暦てんりゃくの治と呼ばれるようになった。

 

「~の治」とついた場合、“すばらしい政治が行われた”と評価されたことを示す良いしるしなんだけど、

じゃあ本当に良かったのか・・・・ということについて、詳しく見ていこう。

 

延喜の治―醍醐天皇の治世

 

天皇親政・・・?

 

「天皇親政」って言葉を覚えてるかな?

天皇自らが政治に参加するってやつだね。

 

醍醐天皇の時代に行われた延喜の治は、藤原氏による統治ではなくて醍醐天皇による統治が行われた・・・ということになっている・・・・・・・・・・・

 

実は醍醐天皇の治世が天皇親政だったというのは、後の時代の一部貴族が勝手にそう思っていた・信じていただけで、

実際は今までと相も変わらず藤原氏による政治が行われていたんだ。

 

延喜の治で実際に政治を動かしていたのは藤原時平と藤原忠平。

時平は尚泰の変で菅原道真を陥れるため、根も葉もないうわさをたてたアイツだ。

 

時平は延喜の治が始まった後間もなく、道真の怨霊(?)によって早々に死んでしまったため、弟の忠平が受け継いで延喜の治を行った。

 

 

延喜の治で行われたこと

 

延喜の治では具体的に何が行われたのかというと・・・。

 

墾田永年私財法が出て以来、数々の原因が重なって崩壊が進んでいた「律令制」を何とか立て直そうとした事が一番大きな功績かな。

延喜格式えんぎきゃくしき」とか律令の修正案みたいなのを出したりした。

 

でもまあ、結局崩壊は止められなかった。

もう律令制自体が時代にそぐわないものになっていたんだね。

 

醍醐天皇が朝廷への雷直撃事件で精神を病んで死んだあとは、醍醐天皇と藤原穏子おんしの間にできた朱雀すざく天皇が即位。

しかし朱雀天皇は幼く病弱だったために、政治のことは摂政・関白の藤原忠平にお任せ。

 

天暦の治―村上天皇の治世

 

天皇親政・・・?(二回目)

 

朱雀天皇の治世は承平じょうへい天慶てんぎょうの乱が起きたり富士山が噴火したりと災難だらけ。(承平・天慶の乱については次回)

こういったバツの悪い事件がいろいろ起きたので、朱雀天皇は弟の村上天皇に譲位することにした。

 

ここから始まったのが、村上天皇の治世。通称「天暦の治」

 

天暦の治も後に一部貴族から「天皇親政の素晴らしい時代だったなあ・・・」と語られることになるわけだけども。

 

確かに名目上は摂政・関白を置いてはいなかったけど、政治の実権もちろん藤原氏が握っていた。

 

天暦の治でも藤原忠平が続投。

まあもうこの頃になるとかなりのおじいちゃんで、割とすぐに死んでしまったので代わりに忠平の息子・実頼らが政治を担当した。

 

 

天暦の治で行われたこと

 

天暦の治で行われた政策で具体的なモノは実はあんまりないんだけど、朝廷の方針がこれまでと全く別な方向へ転換していくきっかけになった時代でもある。

 

端的に言えば、これまで維持しようと頑張ってきた律令制を捨てて、新しい統治方法に変化していったんだ。

 

例えば、律令制の一番重要な部分の「班田収授」

 

一人一人に田んぼを分け与え、一人一人に税を課すという律令制の方式だと、

課せられた農民がどこか遠くへ逃亡して身をひそめられたり、わざと家族の人数を偽って戸籍登録するといった不正が横行する。

 

税逃れされてしまう可能性が高いわけだ。

 

おまけに荘園が発達してきて、貴族や寺社が大規模な田んぼを私有できる状態にもなってきていたでしょ?(初期荘園)

これも税逃れの温床になっていた。

 

こういった問題を解決するには、民衆一人一人に税をかける律令制を捨てるしかなかったってわけだ。

朱雀天皇のころから律令制放棄の動きは始まっていて、天暦の治でもその動きは続いていった。

 

 

これが、延喜の治・天暦の治の正体だ

 

 

なんかショボくない?

 

ここまで読んでくれた人は感じていると思うんだけど、

延喜・天暦の治って字面の割には大して素晴らしい時代でもなければ、大胆に何かが変わったって時代でもないよね。

 

 

文中でもちょこちょこ言ったけど延喜の治・天暦の治は、

後の時代の一部貴族・・・・「醍醐天皇と村上天皇の治世って天皇親政でSUGEEEE!」って騒いでいただけだってことが近年判明したんだ。

 

フタを開けてみれば天皇親政どころかガッツリ藤原氏の政治だったし、大改革も起きちゃいない。

せいぜい、これから始まる王朝国家制の時代への変化の兆しが見え始めた・・・ってことくらいだ。

 

なんでこんな延喜・天暦の治が持てはやされてるかっていうと、

延喜・天暦の治は後の時代と比べて“あんまり家柄が良くない”貴族たちが出世しやすかったかららしいんだよね。

 

 

要するに後の世代の貴族たちが、

 

「あ~最近おれら昇進できね~な~。下級貴族だから差別されてんじゃねぇのかな。それに比べて延喜・天暦の時代はよかったらしいぜ・・・」

 

と愚痴っていたものが尾ひれついて、「延喜・天暦の治は天皇親政の素晴らしい時代!」なんて伝説になっちゃったというわけ。

 

なんとまあしょうもない・・・。

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