江戸時代の身分と社会構造!

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さて!今回は江戸時代の身分制度と社会の様子について見ていくよ。

昔の教科書で記述のあった「士農工商」―武士・農民(百姓)・職人・商人や、えた・ひにんなど結構色々な身分があるからしっかり見ていこう!

 

ちょっと脱線するけど、士農工商って言葉、もうとっくに教科書に載ってない言葉なんだよね。なんでも最近の研究で士農工商って言葉が当時の身分制度を表すのに適切じゃないからだとか・・・。

習ったことが何年かしたら間違いでしたーなんてことが結構あるから歴史の勉強は大変だね!(笑)

江戸時代の主な身分

江戸時代の社会での主な身分には、さっき挙げた武士・農民・職人・商人のほか、公家や僧侶・神職などもあった。加えて、えた・ひにんという差別の対象の身分もあった。

 

江戸時代で一番支配的だったのは武士。いくつか特権を持っていて、「苗字・帯刀」を許可されていた。

言葉通り、苗字(名字)を名乗ることが出来て、刀を腰に差すことが許されるってやつ。

ごくまれに農民・職人・商人がこれを認められることがあったけど、原則武士だけの権利。

あともう一つの特権が、「切捨御免」。百姓や町民から武士に対して無礼な態度があった場合、スパッとやっちゃっても罰せられないっていう権利。

とはいっても、証拠がない状態で人を斬っちゃうと、逆に斬った武士が切腹を申し付けられることもあったからバンバン斬りまくることは出来なかったわけだ。基本的には「正当防衛の権利」みたいな扱いだった。

 

職人と商人は城下町に住んでいて、町民とも呼ばれる。商人はその名の通り商いをする人たちだね。

職人は「手工業者」のことで、主に大工・左官(建物の壁とかをこてとかで塗る人たち)・木挽(木材を切る人)・屋根葺(屋根を作る人)・鍛冶(金属製品を加工する人)など。

 

そして農民(百姓)。基本は城下町から離れた村などで農業を営む人々の事だけど、村にも職人や商人がいることもあった。農業をやっていたのは主に百姓。

公家・僧侶・神職とえた・ひにん

公家・僧侶・神職は特に今までの解釈と変わりなく貴族、お坊さん、神主さんみたいな人たち。

で、江戸時代で「差別」されていたのがえた(穢多)・ひにん(非人)。呼び名からして酷い・・・。

この人たち一体なんでこんな言われようなのかっていうと、当時は特定の職業をしていた人々に対して差別的な見方があったからなんだ。

 

まずえたと呼ばれた人たちは革製品の取り扱いそしてた人たち、また牢屋の番人をしてた人たち。革とかは生き物を殺さないといけないし、牢屋の番人なんかは罪人に対応していることから「穢れたもの」を扱っているって解釈をされて、こういった差別を受けるようになったんだ。

(と言っても、たとえば革製品の取り扱いとかはえたの人々しかできないわけで、職の保証は十分にあった。えたの人々が集まってできた村の中には、田畑を耕して年貢を納めている人たちもいたりと、経済的に安定していた人々もいた。)

 

 

ひにんは物乞い・遊芸・清掃などの仕事をした人たち。生まれながらにしてひにんの人もいたけど、中には貧しさや犯罪などで平民からひにんに落とされた人もいた。

 

このえた・ひにんはまとめて賤民ともよばれていて、結婚を一般人と出来なかったり住む場所が制限されたりされた。

 

今回はちょっと長くなっちゃったね!今日はここまで。

 

 

 

 

 

 

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コメント

  1. けろ より:

    近年の研究において江戸時代の穢多の生活実態は経済的に比較的安定していたと考えられています。江戸期の人口動態を見てみますと一般的に百姓の人口が停滞・減少しているのに対して穢多の人口は着々と増加しています。これは百姓は飢饉で餓死したり村を離れる中で、生まれた子どもを間引くということをしていたからです。しかし穢多は子どもを間引くということをせず、子どもを育てていくだけの経済力がありました。穢多は主産業は農業です。農業に加えて特権として与えられていた草場権や、行刑役などをして生活していました。これも地域によって異なりますが、私の生まれ育った地域では少なくとも江戸期から農業をしてきました。なぜわかるのかというと、この地域は江戸時代に相次ぐ飢饉で百姓が餓死・村を捨てて出奔したことで農業人口が減少し、藩の政策により他地域から人々を移住させ農業人口を保ったことによります。その移住してきた人々は百姓とは呼ばれず作方便利人という名称で呼ばれ、これがのちの被差別部落になりました。私の先祖もこのとき他地域から移住してきたと思われます。主産業が農業ですので百姓とまったく同じように農地を持ち年貢を納めてきました。事実、明治初期の記録を見てみますと、被差別部落の者で農地を数町所有する者が多くいます。小作人に農地を貸付けるだけの農地を所有する被差別部落の地主も多く、我が家の本家などは所有する農地が少ないほうですが、それでも明治時代から数町の農地を所有しており作男と呼ばれる奉公人を雇っておりました。またその他の記録では、明治十年代に被選挙権を持つ被差別部落の者がおりますし、町誌によると明治半ばの村会議員名簿に多くの被差別部落の者が載っております。明治三十年代の富豪家一覧表という記録には、私の曾祖父の義兄(姉の夫)が村の富豪家として記載されております。また江戸期につくられた墓石も残っておりますが、ちゃんと名字も彫られていますよ。元治元年七月十日水瀬イヨ(仮名)、弘化四年十一月一日七十一年柳川カヨ(仮名)のように墓石が作られたのは江戸時代末期ですがきちんと名字が記載してあります。もちろん全ての墓石に名字が彫られているわけではなく天保九年松五郎母などのように名字が彫られていない墓石もあります。このように被差別部落であっても必ず貧しいわけではなく、地域によって生活実態は全く違いました。特に江戸時代の穢多は貧しいどころか、百姓よりもよっぽど経済的に安定し、むしろ豊かだったのです。このような事実もあるということを多くの人は知らなさすぎますので、まずは事実を知るということが大事なのではないかと思いますよ。

    1. jahistory より:

      コメントありがとうございます。

      大変詳しいご説明を拝見させていただき、勉強になりました。
      もちろん私も穢多と呼ばれていた人々が経済的に安定していた(人もいる)という事実は存じておりますし、当記事にも“経済的に貧しかった”、とは記載しておりません。

      当記事の当項目で伝えたかったことは「江戸時代にあった特定の職業を行う人々への差別があった」という点でしたので、経済的豊かさの話題は割愛しておりましたが、
      その点についても追記することにいたします。

      今後ともよろしくお願いします。

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