これまでに蒙古襲来と異国警固番役について学んだね。
蒙古襲来は2度あったけれど、どちらもモンゴルの失敗で終わったんだ。
だけど、いつ3回目の襲来が実行されるか、全く予測がつかなかったんだ。
そこで幕府は、異国警固番役を続けていくことはもちろん、新たに鎮西探題を博多に置いたんだ。
今回はその鎮西探題について分かりやすく説明していくよ。
鎮西探題とは?
鎮西探題とは、1293年に既に機能しなくなっていた鎮西奉行に代わって幕府が博多に設置した統治機関のことなんだ。
北条氏一門がこれに任じられることとなったんだ。
鎮西探題は、六波羅探題に準じたもので、九州の御家人の総括や、
元の再来襲に備えて、異国警固に専念するよう、鎌倉や六波羅への出訴を禁じられた鎮西御家人のための裁判にあたったんだ。
この鎮西探題の設置を機に、九州の政治的中心は太宰府から博多へと移行したんだ。
鎮西探題と異国警固番役の違いは?
鎮西探題も異国警固番役も蒙古襲来に備えて設置されたというのは共通しているね。
じゃあ鎮西探題と異国警固番役ってどう違うんだろう?
まず以前に説明した異国警固番役から説明するね。
異国警固番役は、いつ元が攻めてくるかわからないから、
いつ元軍が攻めてきてもいいように九州の御家人に一定の軍役を課したものなんだ。
一方で鎮西探題は、九州の御家人を指揮するために作られたものなんだ。
鎮西探題を設置することによって、鎌倉幕府は九州に絶大な影響力を確立することが出来たんだ。
つまり異国警固番役は軍役で、鎮西探題は九州を指揮する長官のようなものという認識でいいと思うんだ。