さて玄洋社の過激なヤツに爆弾投げられた大隈重信は負傷し、条約改正は中断したね。
そもそも右翼を怒らせちゃったのは、「外国人判事を認める」というものだったわけだ。その「外国人判事を認める」というのは、「いやいや、外国人判事なんて認めない!」と、条約改正案を出して頑張ったのが青木周蔵なわけ。
この青木周蔵は本当可哀相だよ。
せっかくイギリスとの条約改正がうまく話すすんでたのに、大津事件のせいで失脚させられちゃうわけだからさ。
で、手柄は次の外相の陸奥宗光にもっていかれちゃうわけだからさー。
マジ可哀相だよな!
今日はそんな青木周蔵についていってみよう。
青木周蔵はイギリスと交渉した
まずね。大前提として、青木周蔵が条約改正の交渉に励もうとした時に、ロシアがシベリア鉄道を作り始めて南下政策を取り始めたのね!
南下政策ってのは、南に下りてくる政策だよ。
どんどん南に勢力を広げていって、アジアを支配してやろうってこと。
これに反応したのがイギリスね。
「ロシア下ってんじゃん!南下政策やべぇじゃん!」
ってね。そこでイギリスは考えたわけ。
「ん?待てよ??日本と仲良くしておいてロシアのアジア進出を防ごう。日本は防波堤だ!!」
ってね。まったくいつも時代も日本は極東の防波堤ですな!!
それでイギリスは日本に治外法権の回復など条約改正に積極的になってくれたわけね。
青木周蔵の条約改正案も、「外国人判事を認めない」というものだったから、今までの条約改正案よりも進歩しているものだったんだ。
たださ、1891年に大津事件が起きちゃって、青木周蔵が責任を取らされる。
この時期、日本は朝鮮を巡って何度も清とやりあってるから、極東の利権を狙うロシアが清と手を組んで日本に攻めてきたら大変だからさ。
ロシアの機嫌を損ねないためにも、外相の青木周蔵に責任を取らせたわけなんだね。
あぁ、哀れなり。青木周蔵。