さて、今回はいよいよ水野忠邦が行ってきた大改革(大改悪?)の極めつけ、「上知令(上地令)」について見ていくよ。
読みは「あげちれい」とも「じょうちれい」とも読むよ。
この上知令は、あらゆる方面から批判を浴びて、この政策が忠邦の失脚を招いたとまで言われる失策中の失策だ。
一体どんな政策だったのか。
詳しく見ていこう。
上知令って何のために出されたの?
上知令の表向きの目的は、
- 外国からの襲撃に備えるため
- 幕府の権威を復活させるため
このふたつ。
江戸や大坂の周辺は、大名の領土・旗本の領土などが細かく分かれていて、行政が非常に面倒くさかった。
外国がもし江戸や大坂を攻めてきたとき、江戸の周りの行政区分がごちゃごちゃしていると対応に影響がでる、と忠邦は考えた。
そこで、上知令を出して江戸周辺・大坂周辺10里四方に領土をもつ藩から土地を回収し、全て「幕府直轄地」にしてしまおうとしたんだ。
回収された藩には代わりの土地をあげるとした。
こうして幕府の命令で大名たちを動かせれば、それだけ幕府の力が強いことを示すことができる。
権威回復もできると考えていた。
しかし真の目的は別にあった。
それは、
- 幕府の財政収入アップ
江戸うや大坂近くはみな年貢量が多く、ここを幕府のモノにできれば財政収入がアップすると考えていた。
つまり、「おまえんとこ良い土地だなあ。ちょっと寄こせよ」という某ガキ大将みたいな政策だったわけだ。
大名・将軍・幕府役人・大奥・庶民から大反対
しかしこの法令はまさに「総スカン」を食らう。
領地替えには莫大な費用が掛かるから動きたくない大名たちはもちろん、当時の将軍であった家慶からも「撤回しろ」と言われ、大奥からも批判された。
忠邦はこれが天保の改革の集大成となる法令だと思っていたのに、ボロックソにされて失脚に追い込まれる。
まとめ
忠邦の切り札であった「上知令」は大名たちはおろか身内からも批判され、天保の改革は大失敗で終わってしまう。
しかも、これら一連の幕府の失敗で更に幕府は権威を低下させてしまった。
幕府の衰退がどんどん加速してしまったんだ。