南部仏印進駐で冷えるところまで冷え切った日米関係。
アメリカから日本への石油輸出が全面的に禁止されるという強烈な経済制裁によって、日本は窮地に立たされたんだったね。
ところで、日本の南部仏印進駐に警戒感を持っていたのは何もアメリカだけじゃない。
前回の記事で、仏印の近くにはイギリスやオランダの植民地もある、と書いたよね。
当然この近くに日本軍が進駐したとなれば、イギリス・オランダは脅威に思うわけだ。
そしてこの国々が手を組んで、“日本を包囲”し始める。
ABCD包囲網とは?
日本が仏印に進駐することで困る国は、この4国。
- アメリカ
- イギリス
- 中国
- オランダ
この4国が手を組んで、日本の仏印進駐を阻止しようと経済制裁を行った。
これを、ABCD包囲網という。
名前の由来は、America(アメリカ)・Britain(イギリス)・China(中国)・Dutch(オランダ)の頭文字だ。
ABCD包囲網では具体的に何をしたかというと、「貿易制限・禁輸」。経済制裁だね。
例えば日本が北部仏印進駐をした後、アメリカは鉄の輸出を禁止し、オランダやイギリスもこれに続いた。
さらに南部仏印進駐の後は、各国が経済制裁レベルをMaxに引き上げる。
日本に対する石油輸出を全面的にストップさせて、海外にあった日本の資産はすべて凍結(使えない状態)にされてしまう。
こうして日本は、まさに包囲網によって経済的に完全孤立してしまうんだ。
前回も見てきたけど、日本では石油は採れない。おまけに日本にある石油量では1年半くらいしか持たない。
何とかこの包囲網を脱却すべく、アメリカと交渉を続けるんだけど・・・。
ハル・ノート、そして・・・。
ついに出てしまった。デス・ノートもといハル・ノート。
ハル・ノートは、正式なアメリカからの文書ではなくて、当時の日本との交渉代表・ハルによる提案文書ね。
内容は「中国と仏印から軍を完全に撤退させろ!」だとか「中国の政権は蒋介石政権しか認めない!(=満州国は認めない!)」だとか。
当時の日本からすれば、持っている利権をほぼ全部手放せと言っているようなもの。到底飲める要求ではなかった。
これを見た当時の首相、東条英機は「あ~もうアメリカマジで交渉する気ないじゃん」と失望した。
よって、日本は「アメリカとの交渉はもうダメだ、戦争するしかねぇぞ!」と決意を新たにすることとなる。
そして真珠湾攻撃とともに宣戦布告、太平洋戦争が始まるわけだ。
歴史の教科書では、「日本はハル・ノートを最後通牒(最後の交渉)だとみなし、受け入れられなかったので戦争へ突入した」と書かれているね。
ハル・ノートは、日本が多くの死者を出して太平洋戦争に敗北することを考えると、ホントに“デス・ノート”になってしまった。
余談:ハル・ノートは「アメリカの挑発」だったの?
ハル・ノートは、その内容が当時の日本にとってはあまりに厳しいものだったので、「ハル・ノートはアメリカが日本を挑発して、戦争を起こさせようとしたんだ!」とか「ハル・ノートはもとから日本と交渉する気なかったんだ!」とか言われる。
だけどこれについては、学者の間で認識が異なっているみたい。
学者の中には今書いたように「ハル・ノートはアメリカの挑発!」という人もいるけど、
一方で「ハル・ノートが日本に届く前から、日本は真珠湾攻撃するために軍を送っていた!日本は端から戦争しようとしてたんだ!」という人もいる。
もっというなら、「アメリカは日本が真珠湾攻撃するのを事前に知ったうえで、ハル・ノートを出して日本をさらに怒らせた。あえて真珠湾を奇襲させることで日本を悪者にしようとした」という“アメリカの陰謀説”まで飛び出している。
また別の視点から、「ハル・ノートは日本に開戦させようとしたんじゃなくて、『一旦日本は軍を引いてさ、そのあとアメリカと一緒にアジア作っていかない?』という意思があった」と考える人もいる。
とまあ、ここからわかるように専門家でも意見が割れてるんで真実がどうだったかは今のとこ明らかじゃない。
ただ、日本が南部仏印進駐した時点でアメリカと日本の対立は決定的になってしまったことは明らか。
その後の交渉もまったくうまくいかなかったしね。
だから一つ言えるとすれば、「ハル・ノートが太平洋戦争の引き金」というわけではなくて、「日本の南部仏印進駐が太平洋戦争の引き金」だったということだね。