前回は、「近江聖人」中江藤樹について見てきたね。
中江藤樹は、日本で最初に陽明学を紹介した人物だった。
藤樹の作った「藤樹書院」の生徒の中で有名なのが熊沢蕃山(くまざわばんざん)だ。
熊沢蕃山と中江藤樹が出会ったきっかけ
実は、中江藤樹と熊沢蕃山の出会いについてはこんな逸話がある。
ある武士が近江国を旅していたときの話。大切な金を馬の鞍につけたまま馬を返してしまった武士は金が戻らずがっかりしていたが、そのときの馬子が金をそっくり渡すため武士のもとに戻ってきた。感謝した武士はせめて礼金を渡そうとするが馬子は受け取らない。仔細をきくと、馬子の村に住む中江藤樹の教えに導かれてのことという。そこで武士は迷わず、藤樹の弟子となった。この武士こそのちに岡山藩の家老となった熊沢蕃山であるという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B1%9F%E8%97%A4%E6%A8%B9
藤樹のの考え方が近江を中心に広く浸透していたことから生まれたつながりだったのかもしれないね。
陽明学者として幕政を批判
蕃山は藤樹のもとで陽明学を学び陽明学者となった。
ある時、岡山の藩主である池田光政に呼ばれ、「陽明学を教えてくれ」と言われる。
その後は岡山藩に仕え、岡山藩は「閑谷学校」という庶民のための学校を開いたんだ。(これは以前の池田光政の記事で書いたね。)
一方で、蕃山は大学或門(だいがくわくもん)という本を出版する。
蕃山は農業を重視する「重農主義」を唱えていたから、「武士は農業やるべき!」「参勤交代は緩和すべき!」という主張をした。
しかしこれは幕府の政策と対立するものだったし、幕府は当時朱子学を主としていたから蕃山の陽明学は幕府から批判されることになる。
そのため、のちに幽閉されてしまうことになる。
まとめ
陽明学者として、閑谷学校の創設にかかわるなど、大きな影響を及ぼした蕃山の思想。
蕃山の思想はのちに幕末の吉田松陰をはじめとする思想家が傾倒し、倒幕運動の原動力となっていく。