寛永通宝は銭座で鋳造されていた!場所はどこだったの?

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前回は、「金座・銀座」について見てきたね。

 

金座・銀座では、今の日本銀行と同じような業務をこなしていた。

一番は、金貨(小判)・銀貨の鋳造だね。

 

これに加えて実はもう一つ、小銭を作る場所があったんだ。

 

今回は『銭座(ぜにざ)』についてまとめていくよ。

 

銭座ってどんなところ?

 

銭座は、銭貨を鋳造していた機関。要するに小銭だね。

この銭座だけど、実は「ある点」で金座・銀座とは大きく異なっている。

 

銭座での銭貨鋳造は、なんと民間が行っていたんだ。

 

銭貨の需要が生まれたとき、幕府は「銭貨作りたい人いませんか~?」と市民に呼び掛け、銭貨鋳造の希望者を募る。

 

そのなかで大量に銭貨を作ることができる人物を選別し、期限内に鋳造しきることを条件として鋳造させていた。

 

銭貨が目標の量まで到達したら、銭座は解散していた。

その都度募集をかけていたんだね。

 

ここで最初に作られたのが、有名な寛永通宝。

 

 

銭座はどこにあったの?

 

銭座は全国各所にあって、大坂や長崎、秋田を初めとして全部で60か所以上もあったらしい。

 

ただ問題なのは、こんなにたくさん銭座があって、かつ別々の人が製造しているとなると当然「出来栄えの違い」が出てくる。

 

いまでは政府がすべて硬貨を発行しているからありえないことだけど、江戸時代では同じ価値の銭でも形が違ったり素材が違ったりしたんだ。

 

さすがに均一じゃないのは良くないよね、ということで18世紀半ばあたりから金座・銀座が銭座を支配下に置くようになって、銭の均質化を図ろうとした。

 

 

まとめ

 

銭とはいえ、国の通貨を民間が作っていたというのは驚きだね。

ちなみに、銭座になっていたのは呉服屋や糸割符仲間、銀座役人などお金を持っている商人・町人たちだったよ。

 

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